「分け合う優しさ貫徹 やなせたかしさん死去」(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013101602000112.html)は、褒められている方がすべてといってよいくらいなので、私もそれを踏まえた上で気になったことをちらほら。
内容が毎回大体同じで、筋もわかりやすい勧善懲悪。世の中そんなものではないのに、そういうわかりやすいものを子供のころから何回も刷り込んでよいのかな、と疑問に思ったことが、ふとありました。
そもそも大人になってからは観ることがろくにできないくらいで、ばいきんまんの発声を聞いているとものすごく不快になるんですよね。
わざとすん詰まった、俺は悪いんだぞという声を物凄くデフォルメして出していて、そういう意味では悪の典型を示すという意味で教育効果があるのかもしれませんが、私が普通にみている分には耐えきれないくらいです。
そもそも悪というのは何か、正義というのが何か、というのは世の中本当に難しいものなんですよね。
戦時中との違いもあるのかもしれませんが。
原子力ムラと、周縁原子力ムラを合わせただけで、世の中悪ばっかりです。実際日本がなかなか良くならないばかりかとんでもない方向を向いて行ってしまっているのは、そのことの表れと言えます。
表面からは掴みがたい悪に社会が対処しかねている。そしてその一人一人の善なる心も、自らの中の、典型的な悪の形として捉えがたい悪に対処しかねているように思うのです。
この前の軍部の出世の話しでもしましたけど、こうやって見ていくと、大きい悪というのは、普通にも見える人のこうした欲であったり、歪みであったりするわけで、そういう部分には十分注意しなければならないと思います。
ちょうど最近「(インタビュー)ジェノサイドと現代 トーマス・バーゲンソールさん」(http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201309180722.html)というナチスについてのインタヴューが載っていたので、以下に引用。
「彼らは、家では普通の生活をしている人たちでした。戦争の状況下でなければ絶対にやらないような凶行をした人が、家に帰り、手を洗って子供たちと遊ぶということをしているわけです。もともとは普通の人たちが、特定の条件におかれるとそういう行為に走る、ということがあります。自分の仕事に有利だとか、家庭を守るためとか。抵抗できないということはあります」
「上司・上官に対しては忠誠を誓い、目の前の制度に対しては責任を担いたい、貢献したいと考えている人たちが、そういった行動に走ってしまうわけです。経済的な理由もあるし、政治的な理由もあったでしょう。もっと昇進したい、そうすれば収入も良くなる、と。そういう状況で何かに抵抗することは難しいと思いますね」
とのこと。
アンパンマンのように、悪は秘密基地を持っているんだ、というような悪観では、このような本当に怖い悪を悪として認識できなってしまう。自分の中の(ちょっとした)それ方を重く見て、修正する、ということができなくなってしまうと思うんです。
「もし自信をなくしてくじけそうになったら いいことだけ いいことだけ 思いだせ~。」というアンパンマン体操もありましたけど、これも少し違和感が。
仏教では人に対してこのようなことを説かないんですよね。
仏教(禅など)では、事実関係を調べた上で、必要以上に落ち込むことを煩悩と捉えて、無(というのも専門用語で、いろいろ意味がる言葉ですが)と観じることでそれを滅せよ、と教えます。
それは井筒俊彦さんが東洋の哲人を「深層意識でものをみている人」と定義したように、そのようにものをみる深い精神状態であるとも言えます。
最近では、深層意識には人を癒す力がある、という科学的な研究結果が出た、という話を小耳にはさみましたが、困難があった時にはそのように対処するのが本筋で、良いことを思い出すというのは、煩悩に煩悩を当てているような状況にもなりかねないことだと思います。
これが連綿と続いてきた、仏教の経験則であるといえるでしょう。
もちろん希望を持つことは大切なのですが、思い出す、というのは少し違う気もします。
作風から言うと、手塚治虫とも共通するような、強烈で少し不気味な感じ、もこの世代の特徴といえるのでしょうか。
とはいうのですが、親族にも犠牲が多い人で、戦争を、その悲劇を目の当たりにする形で潜り抜けてきた人の言葉はとても重い。ほんとうは、論評もできないくらいのことなのです。ご冥福をお祈りします。
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