今月のレコ芸はゲルデスなる指揮者のCDが付録についていたので、ケルテスか何かの誤植かと思ったのですが、こういう指揮者がいるんですね。
廃刊の噂が出て久しいレコ芸ですが、CD・DVD・BDといった付録を積極的につけて行くべきだと思うんですよね。そこでさすがはレコ芸と思わせられるようなものをつけられれば、いくらか読者も振り向くのではないでしょうか。
そして交響曲の新譜はなんと4枚!随分なローカル産業ですよね。
やはりこの責任は第一に作曲家にあると思います。伊福部昭さんが「ミドル・ブロウの音楽」(音楽入門 136ページ)という言葉で表したような、深みのある精神性を曲に求める層を満足させられる曲を提供してこなかったということです。また第二には、いくらかあるそういった曲をあまり演奏してこなかった、演奏家の側にあるといえるでしょう。
この前のカラヤン本で片山さんが指摘していたように、過去の楽曲のCDはすでに足りてしまっているんですよね。桁外れに物凄い指揮者のものであれば例外ですが。
宇野先生の文章は相撲界の八百長擁護で、八百長は昔からあった、普段相撲を観ない層に限って八百長を非難する、とのこと。確かに八百長は昔からあって、歌舞伎などにもそのような話が取り入れられていますが、ああいうのは普段の真っ向勝負が前提にあって、その先に究極の選択として、惻隠の情で手加減をしてしまう、というところに文学性があるのであって、毎日のように、うん十万も持ってきて、ごっちゃんです、というのとは全く意味が異なります。
ここをごっちゃにしている時点ですでに失格の文章と言えましょう。書き直しですね。こういうことを書いているから、宇野先生の評論も八百長なのではないかといわれるのですよ。
相撲界も、もし本音では昔からあることだと思っているなら、せめて公平性をたもつために、私たちは八百長をやっていますと、幟に堂々と明言をすればよいと思います。
宇野先生の文章に、手加減を決してしなかった双葉山の話が出てきますが、相撲関係者にしても、双葉山関が今日のような八百長をするなどというのは、想像もできないのではないでしょうか。
歴史的にみて行っても、八百長がひどくなる方向に行っているのは間違いないといえます。しっかりと軌道修正をして昔日の伝統に相撲を復帰させることが、相撲協会の責務なのではないでしょうか。
「統一球変更に一部の球団関与か…第三者委員会が追加報告書議論」(http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/18/kiji/K20131018006828060.html)は内部の情報をどうしても出したくないとまごついているようですけど、ナベツネをほいっと差し出せばそれでおしまいなのに、大の大人が顔を突き合わせていったい何をやっているのか。
田中将大がメジャーに行くというので、入札できる球団は限られているという話がされていますが、それはどこの球団のオーナーがお金を持っているかという話です。彼らはとんでもないお金持ちですからね。
一方でナベツネは何らお金を持っているわけでもない。それにこれだけ配慮するというのは、よほど肝っ玉が小さいのではないでしょうか。
落合はナベツネをコミッショナーにするべきだ、と言っているそうですが、それが実態でしょう。変な影将軍にして腐敗を招くと、酷い方向に行っていまいます。
実務能力から言えば皮肉にも響きますが。
それにしても天野さんなどが亡くなる一方で、こういうのに限って長生きします。やはりそれは、がみがみ思ったことで怒鳴るなり行動しているので、ストレスがたまらないんだと思うんですよね。
読売はCIAなり原発なり、重要で深堀されるべきことがありますが、他のテレビや新聞で取り上げられることはほとんどありません。悪徳が栄える世の中ではいけないのです。
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