行って参りました。
上海博物館の名品が集まる本展。なんとなく海外から品物が来た展覧会は会期分けされないことが多いので、悠長に構えていたのですが、その間に前期が終わってしまったらしく、残念。
カタログが文字だけで本一冊分あるのではないかという詳細なもので、展示品と合わせて、中国絵画の決定版を示そうという気概が伝わってきます。
一番最初に展示されていたのは「青卞隠居図軸 王蒙 1幅 元時代・至正26年(1366)」で、王蒙は文人画の開祖といえる趙孟頫の外孫で南宋画の大成者といわれる人物。
中国で本流として一番大切にされているのが元代の文人画らしく、日本にはそのコレクションがすっぽり抜け落ちているとのこと。
元代の文人画は商品として取引されず、私的に仲間内で閲覧されたもので、だから日本に入ってくることがなかったのだろうとのこと。買い付けることができなかったということでしょう。
また趙孟頫は「筆墨」という流儀を開発して、東アジア全体に非常に大きな影響を及ぼしたとのこと。その師匠の銭選という人が、「素人の絵が最上である」と言っていたそうですが、良寛さんが玄人の料理を嫌っていたのに近似します。やはり禅は中国思想の影響が大きいということでしょう。
筆墨は絵を書のように描くというやりかたで、なので、本当の絵は書の達人でないと描けない、といわれるようになったとのこと。「文人のみがまことの絵」を描けるということになったのだそう。
中国の職人軽視の風潮の中で、どうしても画工よりも文人を上にしたいという意図が感じられるのも正直なところでしょう。
論語など儒教自体は悪くないと思うのですけど、やはり中国の貴族主義はどうかと思います。
日本の文人画や江戸琳派はこの思想を継承していますが、酒井抱一などは、より絵師としての技術の積み重ねが感じられ、さらにより書に接近しているような気がします。
同時に「写意」を開発したらしく、これは宋学の影響なのでしょう。日本の近世に「神」という言葉で表されたような、物の本質を重視する描き方です。
この絵はあまりにも雄大な風景なので、きっと架空のものだと思うのですが、それでも描写が細かいのが特徴。滋味深く、ファンタジックな写実感があり、意外に現代の中国美術のへんてこな作品の中のセンスに似たような物も感じます。傾向というだけのことですが。
「竹石集禽図軸 王淵 1幅 元時代・至正4年(1344)」は重要な作家の貴重な作品らしく、これも竹の克明な描かれ方など印象的。
本展は日本から上海博物館に展示された中国画を踏まえた交換会らしく、着実に交流しています。
カタログには東博の中国美術コレクションについて、中国人以外のアジア人が集めたものとしては最大、とかなり長い表現が取られていましたが、きっとアメリカのコレクションがすごいのでしょう。あまり知らないのですが、どのような陣容なのですかね。
「九歌図巻 張渥 1巻 元時代・14世紀[呉叡、至正6 年(1346)9月書]」は白描画という無駄な線を極力省いた作品で、レリーフの彫刻に似たような雰囲気。
描かれているのは、歴史上の英雄たちなど。
「英雄の肖像は、元明の画は、優弱の癖あり。本朝の画は、剛毅の癖ある」(葛飾北斎伝 271ページ)という北斎の言葉が伝わっていますが、確かに中国の英雄画は静的なものが多いですよね。君子として描かれているということなのでしょうか。
「琴高乗鯉図軸 李在 1幅 明時代・15世紀」は雪舟の師匠の作品。ダイナミックな大河の激流の中にいるのが、何かとぼけて牧歌的な日本の同画題と違うところ。
「秋江帰漁図軸 呉偉 1幅 明時代・15-16世紀」の作者は路上で死去したらしく、「伏生授経図軸 崔子忠 1幅 明時代・17世紀」の作者は明が滅びたので引きこもって餓死。明は日本が朝鮮に侵攻しなければ滅びなかったかもしれないので、こういったことに意外と関わっているとも言えます。
八大山人の名で知られる「花鳥図冊(10開) 朱?斈 1帖 清時代・康煕44年(1705)」は同じく発狂。一つの説として、八大山人の由来は八大円覚経から取ったのではないか、とのこと。
と中国の画家は日本と比べて、過酷な運命の中で死亡している人が多いのが特徴。
同じく南宋から元への政権交代の中で苦悩したという、趙孟頫が一番の代表的な画家だというのも、中国らしいといえるでしょう。
ただモンゴル史の杉山正明さんはモンゴルを忌み嫌うのは清代の流行であって、それまでは元代は認められていた。南宋が硬直した政権だったので、進んで元についたものも多く、その支配は宥和的であった、ということを書かれているのですが(クビライの挑戦 61ページ)(大モンゴルの時代 文庫版325~328ページ)、それ以外のほとんどの資料で、趙孟頫の苦悩が強調されており、きっとそういう部分はあったのでしょう。
また、杉山さんは、上海元代起源説を唱えているので、そうであったら、上海の展覧会が趙孟頫の苦悩を一番に強調しているところは微妙に皮肉ともいえるでしょう。
また文人画が主流ということで、科挙と密接な関係があるわけで、「合格すればだれでも」と公平性が解説に書かれていましたが、血縁主義がかなり入り込む隙間が多かったとも、杉山さんの本に。(杉山さんの情報はとがっていて他の本と真逆だったりするのが多いですね。)
漢詩のみならず絵までも科挙合格者が担っていたということで、職業画家しかほとんど見当たらない日本とここら辺も好対象といえるでしょう。
非常に大きな絵があるのも中国らしいところ。「剣閣図軸 仇英 1幅 明時代・16世紀」は遠くから観たときのスケール感が抜群で、山水画の中で、今でもみられる中国の山の危ない道が奥行きをもって描かれています。
「奇峰秋雲図軸 ?轆賢 1幅 清時代・17世紀」もきわめて雄大な深山幽谷で、遠くで観ると素晴らしいのですが、近くで見ると荒いのでやや拍子抜け。ただ、逆にそれが良いのでしょう。西洋版画の影響があるとのこと。
中国では南北の絵の流派の争いがあったらしく、北の浙派は職業画家的で漸悟禅の北宗と結び付けられ、南の呉派は文人画で頓悟禅の南宗と結び付けられたとのこと。結局は呉派が勝ったそうですが、禅の南宗の勝利は慧能と共に神話化しており、そもそもこのように結び付けられた時点で勝てないものだったといえるでしょう。もしくは勝った方が後から付け加えた感じなのでしょうか。
これを「賞南貶北」というのだそう。
その呉派もだんだん硬直化してきたらしく、「嵩山草堂図軸 王?媽 1幅 清時代・康煕33年(1694)」はそういう傾向が出始めてきたものとして、下手をすると生気を失いかねない作品、との解説。清明ですっきりした描写が特徴的で、日本で言えば円山応挙あたりの感じの雰囲気。
この呉派を正統とする絵画のありかたが見直されるのは戦後のことだった、ということですけど、こういう派閥などと比べると、日本の谷文晁などは自由で、東洋の絵画史において実にユニークな位置を占めていることがわかります。どの技法も並列されている中で自由に選択している感じ。
人が常に絶えずに並んで観ていたのは「山陰道上図巻 呉彬 1巻 明時代・万暦36年(1608)」で、最近中国で注目されている「奇想派(エキセントリックスクール)」に属するという人。魚眼レンズで見たような風景画なのですが、当人や周囲は観たありのままと受け取っていたとのこと。
中国も日本で奇想派が流行ったような、絵画の社会段階を踏襲していくということなのでしょうか。
「花卉図冊(8開) 惲寿平 1帖 清時代・康煕24年(1685)」は境界をぼかす没骨法で描かれた繊細な名作。
他にもコラムの高士奇の話など面白かったですけど、興味のある方は検索して調べてみてください。
情報量が猛烈に多い、貴重な展覧会でした。ありがとうございました。
コメント