東京国立博物館 平常展 運慶・快慶周辺とその後の彫刻

#その他芸術、アート

続いて寄ってまいりました。

東博に預けられている「流転の運慶物」は、人気で眠らせておくのがもったいないのか、いつ行っても展示してあるような雰囲気。

とりあえずの呼び方は「真如園 大日如来座像」に確定したような感じ。おそらく東博側としても、あんまり宗教法人の名前は出したくないと思うのですが、それ以上に運慶であると断言することに躊躇しているということでしょう。

そっくりな同じく運慶作が有力視されている「大日如来坐像 1躯 平安~鎌倉時代・12世紀 栃木・光得寺蔵」といろいろ比べてみる企画で、学術的な側面からも理解が深められる展示。

像入物などは共通していて、形もそっくりなのですが、解説によると、異なる部分もあるとのこと。その解釈に悩んでいるようです。

観た感じは、光得寺のものの方が、装身具がたくさんついていて、豪華。やや厳しい雰囲気があります。

「流転の運慶仏」のほうは、ややふっくらしている感じか。白毫が欠けていたり、微妙に状態が悪いといえます。

他には「道面 菩薩 7面 快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵」が、快慶の清澄な作風が生きた、お面。

「十二神将立像 巳神 1躯 京都・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代・13世紀」はいつ観ても、素晴らしい出来栄え。人間(?)をこれ以上に、猛々しくも精神性豊かに彫ることは、叶わないのではないか。

「毘沙門天立像 1躯 定慶作 鎌倉時代・貞応3年(1224) 東京藝術大学蔵」は悪鬼を踏みつけた、気迫あふれる作品ですが、これもやはり、この前書きました地獄絵図と同じで、人間の内面のものと受け取る必要があるでしょう。

この前に、スタジオで登壇する玉川さんがものすごく気合が入っていた、という話をしましたが、これは渾身の気合で心の中の悪鬼を踏んずけていたのだとおもいます。人間このようでなければ、なかなか、道からの逸脱を免れるものではありません。

「愛染明王坐像 1躯 鎌倉時代・13~14世紀 C-1858」は最近宝玉を洗浄するなどしてかつての姿を取り戻したらしく、真っ赤な全身に、宝玉が散りばめられています。その美しくも毒々しさもある姿は、この前のボードレールの悪の華を題材に取ったガレの作品を思い出させました。

愛染明王は小さな欲を大きな質の高い欲へ変えていく、密教の明王。

平常展の彫刻展示の仏像では「菩薩立像」が、典雅で繊細に彫られていて、慈悲深き天神の如き姿。

当時最新技術だった玉眼が使われているとのこと。当時はリアリティを出すためにいろいろ工夫をしていたらしく、口の中に歯を描いたり、唇に水晶を張ってその上から朱を施すことで艶やかさを出していたとのこと。

東博の展示についてですけど、東博にあるものは基本的に国民の共有財産なので、基本的な注釈をつけた上で、12分に味わえるように、ネットで公開するべきだと思います。「e国宝」をはじめ、そういうのはいくらかありますが、まだまだ整備が足りないといえるでしょう。

そのようなことを完備した上で、東博はプラスアルファを目指すべきではないか、と思います。プロジェクションマッピングはその一つになるかもしれませんし、またやはり私が前から言っているように、触覚を中心とした、視覚以外の五感にも訴えかけるもの、もしくは通常展示の中にも作品間の連関や背景を意識したものが大切になってくるでしょう。

美術自体がコンピューターによって家で手軽に触れられるようになった今、より、攻めの展覧会を目指すべきだと強く思うのです。

こういったことの海外事情については「(日曜に想う)美術館、まず見てほしい「作品」は 論説主幹・大野博人」(http://www.asahi.com/articles/TKY201311020440.html)に詳細されていましたが、「無料」というのが欧州での主流であるというのみならず、「国民だれもが無料で接することができなければならない」という思想に貫かれています。

やはり、何周も遅れている、というのが率直な実情でしょう。

総括原価方式のように、日本全体から薄く広くとって利権に回すという思想が消えるまで、美術館も変わらないでしょうか。文化の発信所として、嚆矢となって欲しところ。

とても質の高い仏像を、学術的な側面からも理解を深められる展示でした。ありがとうございました。

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