サントリー美術館 のぞいてびっくり江戸絵画-科学の眼、視覚のふしぎ- 前期

#その他芸術、アート

行って参りました。

田中優子さんやタイモン・スクリーチさんの研究成果をまとめた感じの展覧会で、美術の専門の方がまとめたものとはまた違う雰囲気があります。

田中優子さんはサンデーモーニングでも出番が減った感じ。減るのは新陳代謝ともいえるのですが、どうも後を継いだ人たちが実に悪い意味でおとなしい人ばかりなのが、テレビの実情を表しているといえるでしょう。

カタログでも最後に、際限なく国を開くのが、グローバル化ではない、と批判。暗にTPPを指しているといえるでしょう。

こういう風に、江戸時代であるとか、歴史をやっている人は、それをもとにもっと現代の問題に対して発言していくべきだと思います。

前に杉浦日向子さんの江戸時代ファンタジー説を引きましたけど、最近まで、参考にするような時代ではないという考えが強かったのでしょうね。

最初に置かれていた「不忍池図 小田野直武 絹本著色 / 一面 1770 年代 秋田県立近代美術館」はいわゆる秋田蘭画。秋田で西洋画が良く行われていました。ほかの地域は伝わってきてはいたのですが、美意識と合わなかったのだといえるでしょう。

接近してみるとつぼみにありがいるのが、観ている人を驚かせる工夫であるとのこと。

「岩に牡丹図 伝 佐竹義躬 絹本著色 / 一幅 18 世紀 個人蔵」など、ここ一帯の江戸時代の洋画は後に広重がよくやるような、近景に大きなものを描いてどんどん遠景を描いていくという構成のものが多かったです。広重もどちらかというと写実寄りですから、西洋画法を日本画的に生かすととこれが有効だということなのかもしれません。

「江戸城辺風景図 亜欧堂田善 絹本著色 / 一面 寛政年間(1789 ~ 1801)後半~文化年間(1804 ~ 18)頃 東京藝術大学」はブリューゲルを思わせる画風の、技術が確かな作品。亜欧堂田善はいろいろ洋風なことに手を付けていて、本展覧会の影の主役とすらいえます。

松平定信の御用絵師だったとのことで、東洋を中心にあらゆる絵画技法をこなす谷文晁にたいして、より洋風に特化した絵師としての位置づけだったのだと思います。

「大日本金龍山之図 亜欧堂田善 銅版筆彩 / 一面 文化年間(1804 ~ 18)頃 歸空庵コレクション」では「大日本」という言葉に、西洋の技法で日本の風景を描いて渡り合う気概が示されています。

しかしどうも、日本の建物はやっぱり巨大な壮麗さには欠けると思うんですよね。内側はそれなりにきんきら金で豪華だったりするのですが。

最近「中谷美紀 トルコ紀行 天才建築家 シナンが遺した奇跡」を観たりしたんですが、たとえばアヤソフィアやスレイマニエ・モスク、もしくはノートルダム大聖堂のように昔に石を積んで建てたものがどーんと残るという環境にはありませんからね。

大体は地震で崩壊したり落雷で焼けたりといったことになります。

「インカとエジプト」((岩波新書) 増田 義郎 (著), 吉村 作治 (著))によると「吉村 諸文明の国家形成期には、政治権力を誇示するために、ああいう人を威圧するような大きなものを作った、ともいえるんじゃないでしょうか。」(82ページ)と、アメリカ・エジプトのピラミッドや仁徳陵(ここではそう書かれていますが、多くの方がご承知のように大仙陵古墳と書かれることが最近では多いです。)が出されています。

しかし日本では、そういう巨大な建物が永続的に建てられられなかった、というのがあると思うんですよね。それが世界的に観ても統治が緩やかで、世論政治といわれるような、民衆の声に合わせた政治を行っていた、江戸幕府の特色と関係しているのではないかと思うんです。女性の地位もとても高かったですし。

硬直した官僚制などの張りぼて式の権威的なシステムとそれを支えた巨大建造物・原発は、そういった日本の制度・社会にそぐわないものとして、日本列島に異物として認識された。それが原発事故だった、ともいえるのかもしれません。

ただ、こういった建造物は中国にもないと思うんですよね。神聖王権の専門家ともいって良い白川静さんは巨大建築に言及することがありませんでした。

また、中国史の関連で言えばこの本には「増田 ギリシャ、ローマの奴隷制社会と一緒にしてはいけませんね」(87ページ)というコメントもありますけど、いろいろな文明をみていると、中国史の郭沫若の説なんかも本当にギリシャの特殊なケースを持ち出して無理やりあてはめている感じがしますよね。

「浮絵海士龍宮玉取之図 西村重長 大判墨摺筆彩 延享年間(1744 ~ 48)頃 千葉市美術館」は宮殿と外壁の消失点が一致しないとのこと。まだこなれていないという解説ですが、日本絵画の伝統で、同じ絵の中に違う空間を描くことが影響しているのかもしれません。

「浮絵異国景跡和藤内三官之図 歌川豊春 大判錦絵 明和年間(1764 ~ 72)後期~安永年間(1772 ~ 81) 町田市立国際版画美術館」は消失点が3つある絵で、独特のリズム感を感じます。能はポリリズムという交錯したテンポを持つことで知られていますが、それとも共通した雰囲気。

誤った遠近法とされるいくつかのものにも、日本人の破調を好む感覚が影響しているのではないかとも思います。こういう遠近法をずらして使って違和感をみるものに感じさせるような絵は、現代でももっと描かれると面白いかもしれません。

「名所江戸百景 大てんま町木綿店 歌川広重 大判錦絵 安政 5 年(1858) 個人蔵」はそういった歴史を踏まえてみると実に洗練されていて、かなり洋風のものなんだなという認識を持ちました。だからこそ西洋でも理解されたというのも大きいでしょう。

ややもすると日本風と全面的に捉えてしまいがちな広重ですが、当時の歴史の突端にいた絵師だった、という意識を持って観る必要があります。

「踊形容江戸絵栄 三代歌川豊国 大判錦絵三枚続 安政 5 年(1858) 名古屋市博物館」は遠近法で歌舞伎座の偉容を描き出したもの。真横からも裏からも観客が観ていて、サントリーホールみたいな構造にするのが、本来の歌舞伎座らしいのかもしれません。

「三十三間堂  伝 円山応挙 中判墨摺筆彩 宝暦年間(1751 ~ 64)頃 町田市立国際版画美術館」は「反射式覗き眼鏡 イギリス製 木製 / 一基 18 世紀 町田市立国際版画美術館」でみると浮き上がって観えるという作品。

実際に見事に浮き上がって観えましたが、科学的な解説は無し。レンズの歪みとかが関係しているのですかね?(ネットのこの論文は詳しいですね(http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/31546/1/img-315131237-0001.pdf))

応挙の絵はこの機械と関連付けられるともいわれ、カメラ・オブスキュラの視覚の影響を受けたといわれるフェルメールと同じく、光学的な進歩が輩出した画家とも言えるのでしょう。

日本の光学的な発展は遊び心と関係があるとのこと。

日本ではかなり望遠鏡が普及していたらしく、宴席で覗いている絵も。

「長崎蘭館饗宴図 川原慶賀 紙本著色 / 一面 19 世紀 個人蔵」は出島の風景ですが、出島から出られないオランダ人にとって望遠鏡は必携であったとのこと。

「雪華文蒔絵印籠 原羊遊斎 木製漆絵 / 一合 天保3~ 11 年(1832 ~ 40) 古河歴史博物館」は美術館のホームページでも観られますが、雪の結晶をあしらった、モダンで美しい印籠。古さを全く感じさせないデザインに、自然の普遍性を感じます。

「カルペパー型木製単眼顕微鏡 日本製 木製 / 一基 1800 年代 個人蔵」は顕微鏡を木製で再現したもの。全く違和感が無く、少なくとも外面的には非常に完成度が高いです。欧米のような膨大な物資を持っていない中で、技で高い水準に達しているな、という印象。

「羽子板型日本図(顕微鏡付) 銅版 / 十一枚       顕微鏡:一基 19 世紀 神戸市立博物館」はミニチュアを顕微鏡で覗いて楽しむもの。後の小林礫斎の作品と繋がりがあるのでしょうか。

顕微鏡で観たダニを描いた墨絵なども展示されていました。

「尾張名所図会附録 小治田之真清水 高力猿猴庵 原画 /小田切春江 編 木版墨摺 / 一冊 明治初年(1868)成立 / 昭和 5 年(1930)刊 名古屋市博物館」は「葛飾北斎伝」(岩波文庫)にも載せられている北斎の巨大達磨を描いたものですが、これってやっぱり今はないんですかね?(ぐぐると戦災で焼失したとあり。北斎伝が書かれた時点では存在したんですね。)

「魚蟲譜 栗本瑞見(栗本鋤雲) 紙本金銀泥著色 / 七巻のうち第三巻 文政 2 ~天保 2 年(1819 ~ 31) 宮城県図書館」博物学的観察に基づいたもので、金魚がきんきら光っています。

江戸期の絵画は写実的ではないといわれたりしますが、それはわざわざ美意識に基づいて描いているのであって、日本の写生技術の水準の高さは博物学を覗けば一目瞭然です。

「大絵画本 ライレッセ 銅版 / 一冊 1707 年 仙台市博物館」は平賀源内も持っていたという西洋絵画の技法について書かれた本。鈴木春信が友達だということで有名です。

江戸時代はしっかり、西洋のものが入ってくるものは入っていたんですよね。19世紀のスピードが速かったですから、取り残されている印象を持ってしまいがちですが。

浮世絵も西洋の腐食銅版画の日本的な表現なのだそうです。

「廣尾親父茶屋 司馬江漢 大判銅版筆彩 天明 4 年(1784) 平木浮世絵財団」が展示されていましたが、腐食銅版画を日本で一番最初に作ったのは司馬江漢。それは眼鏡絵であって、道具もろとも持ち歩いて、地方の人に江戸の写実的な風景などを奥行きを持ったものとしてみせていて、驚かれたのだそうです。

今回の展覧会ではいろいろ江漢の活動が紹介されていて、「地球全図 司馬江漢 銅版筆彩 / 一枚 寛政 5 年(1793)頃 名古屋市美術館」のような世界地図をもって行って各地で講義をしていたりしていたとのこと。

「天球図 司馬江漢 銅版筆彩 / 一枚 寛政 8 年(1796) 個人蔵」など、星座や天文学についても詳しかったのだそう。

ただ展示品があるだけではよくわかないこの人物の活動についてもかなりつかめるところがありました。

戻ると、またこの大絵画本には光線についても解説されていて、「月の陰忍ひ?疚ふ夜 頭巾  歌川国貞 大判錦絵 文政 10 ~天保年間(1827 ~ 44) 名古屋市博物館」の光線表現はその影響であるとのこと。北斎などもよくやりますよね。

このコーナーは「第5章 〈光〉と〈影〉を描く-影絵・鞘絵・鏡・水面」というタイトルですが、「陰影礼賛」的な感覚はこういった経験を経て、明治以降に成立した感覚なのではないかと思いました。少なくとも江戸以前のものを観ていて、私は陰影に対する愛着を感じることが無いんですよね。

照明ができてからのものなのかもしれません。伝統的だと思われていますけど、結構最近の感覚のものの一つなのではないでしょうか。

東西の衝突を題材にするオルハン・パムクさんは日本の伝統と近代の調和に興味を持っていて、その中で特に谷崎潤一郎が好きだというのですが、誤解をされている可能性があると思います。

日本の絵画も浮世絵ではそうではないのに、小林清親とかになるといきなり影が濃く、躍動感が失せて静的になるんですよね。

「国芳雑画集 歌川国芳 木版彩色摺 / 一冊 安政 4 年(1857) 名古屋市蓬左文庫」はいろいろな鏡に映った顔を描いたもので、北斎漫画など変顔集の一つです。光学的笑いと言えましょう。SNSで変顔がたくさん投稿されるのは紛れもなく日本の伝統です。今のところはこういった変顔集の方が思い切ったものが多いですが。

このいろいろに映る鏡は広間に実際におかれていて体験できます。サントリー美術館らしい展示作品に止まらない工夫と言えます。

わたしは日本絵画の本流も好きなので、こういう海外との接点ばかりに光が当てられる美術史はどうなのかとも思うことが多かったのですが、そういった本流も踏まえた上で言えば、やっぱり、いろいろなヴァリエーションがあって面白いな、と感じました。

先人のエネルギッシュな、拡散する表現意欲を感じることができました。ありがとうございました。

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