27日のラジオの最初は集団的自衛権。
「集団的自衛権を進めているのは外務省」「構えれば構えるほどテロリストの対象になる」とのことで、ここら辺は武術でもよく言われることです。
勝つためには敵愾心を捨てろと武術でしつこく説く理由の一つはここにあります。これは国際関係でも全く変わりません。ネトウヨは勝とうと思うなら思うほど敵愾心を消さねばなりません。そして本来ならそのことを説いてあげる大人がたくさんいなければならないのです。これも、東洋の理念が廃れていることで生じているマイナスのひとつす。
「我々はこういうのを避けてきたんですよ。だから平和だったんです。」「違憲判決が出た選挙」で選ばれた国会議員が何をやっているんだということ。
当たり前の判決を出す司法が光ってみえる、とのことですが「光って見えるんだけどその効力って」あるのか、他に学者で反対している人はいないのかと、室井さんの疑問。
憲法学者もみんな反対しているが、反対している人はメディアに出られない。
新聞は偏向していて、明らかに反対が多いのに両論併記をしている。とのこと。「報道番組」とされるものでもそのような平等に満ちています。
公明党については「創価学会で活動してきた人にはショックな人がいると思うよ」とのこと。
戦中に戦争反対で獄死者を出した創価学会も、仏教風に言えばその遺徳て食いつないできたのですが、戦後の喰い潰しが完了した感じですね。
続いて都議会のセクハラ発言問題では、舛添が発言時に笑っていたことや、声紋分析もしないで終わる、という話を。
「安倍さんのやっている女性政策なんてみんな嘘だと思う」「私もそう思う」とのこと。
室井さんは、すべて人ごとになっている、ということを指摘。
国民個々の人の身になって考える能力がものすごく低下しているんですよね。
こんな状況になっちゃって何か希望はないのかと室井さんが問うと「悪い状況になるほど元気になる」とのこと。
しかし前も書きましたけど、金子さんのように倫理基準を取っ払っちゃうような言論活動をしていたら、悪い状況になるのは当たり前じゃないですか。自分で悪い状況にして勝手に元気になっているのではないかという疑念が拭えないのですが・・・・。
この前話した伝でいえば、教条主義(ドグマ)か放置かしか脳内選択肢がないんですよね。
金子さんがブログで取り上げた「若者は本当に田母神氏を支持したのか?」(http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20140211-00032569/)は投票率を根拠に否定していますが、投票に行っていない層も含めた若者の歴史修正主義的な傾向は明らかに裾野の広いもので、まったく軽視するべきではありません。
「20代の支持数は50代と大差ない。」や「平均年齢は「38歳強」」など、圧倒的な人口差を無視して補注もない分析は極めて疑問です。
最後の表も宇都宮・細川への投票との割合の世代別の違いは異様で、投票することによって表に出てきた数だけをカウントするこの文章の手法の欠陥を示しているといえます。
みえない数字をすべて自分の都合の良い方向に斬捨てるやり方はおかしいです。
こういう論考を引いてしまうというのは疑問です。
ちょっと突っ込んでいえば、金子さんの論法だと若い世代が倫理的に下がり、劣化していくとなれば先が無いので、このような論考にすがっているように思いますね。
ただ上の世代がいかにもしっかりやってきたというような語りをするのはうんざりです。
美濃部亮吉氏が1975年に「石原慎太郎の出馬によるファシズムの復活を阻止する」として立候補したのは有名です。美濃部氏自身は左系ですが、当時から石原のような歴史修正主義を標榜する人物が当選する思想傾向にあったことはもっと自覚されるべきです。
その延長線上として自然な現状ともいえる。今回の都知事選ではもしかしたらもしかしたらなんとリベラルに振れたとすらいえるかもしれないのです。
また、アーレントは日本の知識層っぽい人はみんなといっていいくらい好むんですけど、ボーア人に対する見解などを読んでいると(「大英帝国という経験」 (興亡の世界史) 井野瀬 久美惠 (著)316ページ)、人種差別的なところがあって私は好きではないんですよね。
それは本人の、思考の嵐が善悪を区別する能力をもたらすという思想の限界をも示しているのではないでしょうか。
付き合っていたハイデガーは考える力を持っていたんですかね?
金子さんはこれで日本の諸問題を解釈されているみたいですが、こういう今だけでいいやといった政策が取られるのは、思考停止で馬鹿だというのもあるのでしょうけど、直近の利益にかまけて、煩悩に負けている、というのが一番だと思います。そちらを本線に据えるべきです。
同調圧力に対する抵抗力も、考える、といったことによって(のみ)克服できるものではなく、同調することによって得られる利益・不利益を煩悩であると認識して切って捨てられるかにかかっています。これは徳性に属することです。
結局このアーレントの考えがあれば徳性を無視しても大丈夫と言うことにはならず、むしろそのような方向に行くとした危険であるとすらいえるでしょう。
また、仏教では悪人を凡夫と表現します。アーレントの議論を受けて言えば、アイヒマンは凡夫であったといえます。
悪とは平凡な人であるという見解は東洋哲学的に言うと目新しくはありません。ちらちらみかけるアーレント評を読んでも、そのようなことに気が付いたものが無いのが寂しいですね。本来は悪を悪魔の仕業とする欧米圏であるからこそのインパクトがある考えなのだと思います。
ただ仏教ではそのあとに仏の智慧を訪ねることを勧めるわけです。修行をするなど、仏法を楽しみつつも四苦八苦して克服していくものであって、考えるだけで克服できる類のものではありません。
凡夫状態を智慧をもって抜け出すところは似ている(後述するように智慧の内容も違いますが)のですが、それを得るための実践面が明らかに弱いです。
陳腐な悪(凡夫)から脱却することの困難に対する自覚や、脱却する具体的な階梯への認識について著しく不足するところがあるように思います。
加えて「H.アーレントにおける「出生」の存在論的意味
山 口 充」(http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/2006/pdf/02.pdf)にあるように、自由と意志の自由とを分けて違うものであるとすることも、似ています。東洋哲学界で前者が西洋的自由と言われるものであり、後者は東洋的な自由と呼ばれるものに近似しているといえるでしょう。
「内なるファシズム」という言葉も、ドグマを否定する東洋哲学に似ています。仏教で煩悩と呼びならわされる、克服されるべき内なるドグマをこのような表現で呼んだのでしょう。
ただ、違うのは、仏教はドグマの否定も否定することです。禅の源流とも言われる荘子では無無無と三回重ね、ドグマの否定の否定も否定します。否定しきったところに本当の自由が生まれるという考えです。
なぜこのようなことをしなければならないのか?
それは一回否定しただけでは、仏教で「空執」と呼ばれる、ドグマを否定するドグマに陥って真の自由に至れないと考えるからです。
これは社会科学でファシズムを否定するコスモポリタニズム。ナショナリズムを否定するグローバリズムが結局は同じものとされることに近似しています。
アーレントの思想はこの「空執」のところに留まっていて、克服できていないように感じます。
般若心経でいえば「色即是空」はあるのだけれども「空即是色」がない。「空即是色」がなければそれを内包する「色即是空」もないので、本当は色即是空もないとも言えますが。
そのマイナス点の一つとして、このような考えでは、たとえば共同体の中でまっとうな責任感が育ちにくいというのがあるのではないか。
それは結局第2次世界大戦後も欧米世界においてリーマンショックのような無責任がいまだにはびこっている原因の一つであるように思うのです。
「奇蹟としての出生」も仏教の「天上天下唯我独尊」に意味が非常に近いようなんですけど、ちょうど上で解説したような、尊厳の立脚点となる世界認識の差があるといえます。
ただ、発想としてあまりにも釈迦の誕生説話と似すぎています。東洋哲学の知識があって、影響があったのではないでしょうか。
ハイデガーが道元の影響を受けていたという話は出典が特定できず怪しい、とぐぐるとでてきますが、重なる部分があるのは確かなようです。また、ヤスパースが実際に影響を受けていたのはどうも確からしいので、アーレントにもその知識があったとしても不思議ではないでしょう
そして全体的に言えるのは、キリスト教的な基盤を基にそういった(仏教的ともいえそうな)思想を補完的に叙述したもので、キリスト教的基盤が無い人がアーレント的なものを実践しようとしても、さらに意味が無いように思えます。
「世界の複数性、思考し続けて」(http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2014060100004.html)という書評も最近掲載されましたが。
「人を特定の集合的なアイデンティティーと一体化させてしまうことは、一人一人の存在の独自性、彼女の言葉で言えば「世界」の「複数性」という最も大切なものを脅かすと考えたのである。」
というのは、ナショナリズムの同義語としてのグローバリズムやコスモポリタニズムの思想に適合してしまうのではないですかね。
文化や地縁と結びついたまっとうなナショナリズムや、身近な縁を契機として形成される「仁」や「慈悲」といった人間性の発育する機会を奪ってしまう危険があると思います。
自分の生れついた土地や集団の中で愛情であったり交換される感情があり、育まれ、身体的に蓄積されるわけですから、「複数性」を失わない範囲でそういったものを尊重して生きる、ということは自然であって、ナショナリズムやグローバリズムの超克のためにも重要なことだと思うのですが、どうもネット上でアーレントに関する論文などを読んでいてもそういった発想に欠けているように思います。
ローカリズムがこのようなことを言っているかは知りませんが、ローカリズム的なナショナリズムとグローバリズムを共に超えようとするような内容が無いと思います。
全体主義の時代を受けた次の時代の思想家として逆側への偏りをアーレントにしても避けることができなかったということだと思います。
「女王様の○○」といういい方がイギリスでは好まれていて、そういう風に言うといかにもやわらかく聞こえますが、内容は権力的なだけです。
アーレントもごりごりで西洋哲学を引用するのではなしに、女性なので柔らかい雰囲気を醸して引用しやすい風潮があると思うんですけど、どんなものでしょうか。
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