天声人語2014年10月23日(木)付

#その他文化活動

「天声人語2014年10月23日(木)付」は三島の『不道徳教育講座』を引用して道徳教育を批判したもの。

「保守」の三島由紀夫がこのようなことを書くのは意外に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはすごく三島の座右の書である「葉隠」に雰囲気が似ているんですよね。

「江戸武士の日常生活」((講談社選書メチエ) 柴田 純 (著))に「葉隠」は昭和に軍部の思想と合うので武士道の書として取り上げられた、江戸期(佐賀藩)の主流の思想とはかけ離れたもので、刹那主義で快楽的な側面を持っているものである、と指摘されていますが、そういう流れが文章に入り込んでいるのを感じます。

また、この文章の周囲をやや馬鹿にして睥睨する感じの雰囲気がそっくりです。かなり、「葉隠」に近いものを私は感じます。

「葉隠」は無責任の書とされており、三島およびこの文章もその戦前の無責任を戦後に受け継いだものといえるのではないか。「保守」とはそもそも不道徳なものなのです。

この記事を受けて言えば、私も道徳教育には反対で、特に点数化は愚かで開いた口が塞がらないくらいです。また、今の政権や官僚にやる資格がるかといえば論外中の論外です。

しかし、時に徳育そのものを無視したり否定するような論者がいるのは、どうか。

今まで指摘した通り朝日新聞をはじめあらゆる方面の倫理崩壊はとんでもない水準であって、それを改善するためにもまっとうな徳育は絶対に必要だといえます。

極端な放置主義のコインの裏側として、安倍政権のような明治的な道徳教育が勃興してしまっていると思うのです。

これはポストモダンのなんでも相対化してしまう思想が大いに影響していると思うんですよね。それについてはまたアップします。

徳育は絶対に必要であって、教条主義で縛るのではなく、その人の内側の本質的な徳を向上させることに的を精確に絞らなければなりません。

それを達成するには、日本という国土で育まれてきたが故にそれとの整合性があり、分厚い実績を持つ、東洋の理念による学びがベストです。その際には

「「論語」を道徳訓の代用にするような扱い方にも、はげしい不満を感ずるのである。」(桂東雑記拾遺 白川静216ページ)

という戒めを中心に据えて、本質的な人間としての向上寄与するように、それらの教育は行われなければなりません。

また、必ずしも教育というだけではなく、そのような価値観を社会で大切にするというコンセンサスも時にそれ以上に重要でしょう。

無責任社会を脱して、しっかり責任を取り、著しく不道徳な人たちを社会からはじき出す自浄作用こそ求められています。

23日のそもそも総研は再エネの接続拒否について。

経産省の説明は平たく言って監督責任を放棄して知らぬ存ぜぬで通したもので、担当の松山泰浩氏はまさに日本きっての○○。

これで原発を再稼働するというわかりやすい構図なのですが、テレビはそのようにはまず報道しません。

番組のつくりとしては、揚水発電に対する言及がなかったのは一つの不備だと思います。

この問題は農業新聞でも取り上げられていて、農業用水との関係でこちらは小水力の未来が危ぶまれている模様。

経産省&安倍政権は本当にどれだけ国を悪くすれば気が済むのかと思います。

ニュースでは貿易赤字の原因に太陽光発電の部品の輸入が増えたから、という理由を挙げていましたが、私は元のデータをどこで観られるか知らないのですが、これは正しいのでしょうか?

こういうのは立場主義と呼ばれたりしますが、いわゆる日本の戦前以来の集団主義の言い換えともいえる。

この集団主義というのは、海外から観ると個人主義である、という話があります。

自分の利益のために理屈を曲げて自分の集団を正当化しているわけで、個人主義に他ならない。全体のこと、ほんとうの集団のことは何も考えていないではないか、というわけです。

私も現代日本の集団主義は個人主義と呼んだ方が病巣がわかりやすいと思います。

これは結局仏教における厳密な意味で自我に執らわれているということだといえます。

色々言い換えは適時行われますが、現代日本に核心的に全く足りないのは、先人が大切にして希求してきたはずの、無我の心なのです。

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