3月13日の大竹まことさんのラジオは「天皇陛下「震災の教訓伝え安全な国土を」」(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150311/k10010011631000.html)について。安倍首相は触れなかったが天皇陛下は原発の惨禍について積極的に触れた。しかしそこはカットされて伝えられているという話。
室井さんが言うには、言葉を読めばどこを伝えたいかがわかるはず。でもそこをすべてごっそりカットされて報道されている。ということ。
何が急所かというのは主観であるわけですが、それが歪んでいるともとのものが跡形もなく歪むことがあります。
次は再エネは導入すればするほど天候の違うところなどで補い合って「しわ取り」されて供給が安定するという話。
大竹さんは「電力が不安定になるっていうんだけど、それは違うんだ。」との納得の独白。
不安定説の森永卓郎さんがいろいろいっている時はそこまで言いませんけど大竹さんは、詭弁だなぁ、と思いながら聞かれているのでしょうね。
ゲストは國分功一郎さん。
90年代に哲学を研究を始めたころは、こんなことをやって意味があるのか、と言われていたが「こんなことやって意味があるのかな」と本人も思っていたとのこと。
でも最近は哲学から考えないとわからない問題が最近は増えてきた、とのこと。
今回は沖縄の話が出ましたが、普通そんなことはしないだろ、というようなことが強行されることが増えてきて、それに対して知の世界が対抗する必要が出てきたんだと思います。
安倍内閣の詭弁や歴史修正主義は本当にあほらしくて屁理屈が多いんですけど、その誤謬を指摘するのは、かなり専門的な知識が必要だったりするんですよね。
あほな意見だという感覚は正しいんですけど、屁理屈を相手の詭弁に合わせて随時論破するとなると、生半可じゃないんですよね。
嘘や詭弁を言う方が適当に水を撒く方だとすると、指摘する・反論側はそれに合わせて水を漏らさないように掬わなければいけない、くらいの条件なのだと思います。
本当は水を投げた(嘘をついた)時点で社会から退場にならなければいけないのですが、そうならない酷い社会がさらに社会を酷くしている状態と言えます。
「根本から考えないとうまく反論できない状況になっている」。今の政権はそういうところが上手い、とのこと。
民主主義とは何だ、といったことが問われる事例が増えているという話。
立法権と行政権の話しでは「法律をどう運用するかということも大切」というはなし。ここを重視するのが、最近の新しい風のように感じます。そして運用は人に属する事柄なんですね。
小選挙区制の弊害を補う運動でもあるのでしょう。
マイノリティを守るのは国で一定のレヴェルを維持しなくてはいけない。地方分権を悪用されていて丸投げになっている、ということ。
次のゲストの金子勝さんは「この国は集団主義に見えるけど凄い個人主義なんだよ」とのこと。
私は、象徴的に言えば集団主義っていうのはマザーテレサのような人を言うんであって、今の日本の現状に使うべき言葉ではないと思っています。
「(人質事件とメディア)集団化と暴走を押しとどめよ」(http://www.asahi.com/articles/ASH2977NXH29ULZU020.html)の
「 今の日本の右傾化や保守化を指摘する人は多いけれど、僕から見れば少し違う。正しくは「集団化」です。集団つまり「群れ」。群れはイワシやカモを見ればわかるように、全員が同じ方向に動く。違う動きをする個体は排斥したくなる。そして共通の敵を求め始める。つまり疑似的な右傾化であり保守化です。」
というのはこういうことと関連してきます。
新自由主義によって利己化が進み、利己のために集団化し、それが右傾化的なものを招いている、とすっきり整理できます。
「海兵隊はグアムにいて十分なんだよ」とのことでこれは異論の余地が無いでしょう。
沖縄に米軍がいてもミサイルで一発ふっとばされると言いますが、これは目をつぶって脇に置いて、沖縄に米軍を多く配置するとしても、なぜ海兵隊であることに抗議をしないのか。
これだけで日本政府に主体性も防衛する意志もないことが知れます。
普通の内閣なら潰れているのに、利益相反をしても首にならない。ということを。
最近「没落していく民族がまず最初に失うものは節度である」(シュティフター「水晶」)(ことばの饗宴―読者が選んだ岩波文庫の名句365 (岩波文庫 (別冊7))153ページより)という記述を見つけましたけど、倫理崩壊と国家衰亡はセットのものです。
「大抵物事は内より破れますよ。」(勝海舟)と同じ意味ですね。
沖縄については「むしろ売国になっている。それを愛国と言っている」。今の安倍政権は部下いじめの中間管理職、とのこと。
室井さんも言っていましたけど「遺憾」や「粛々」といった言葉は、本当に良くない使われ方を社会でしていると思います。
前者はただ残念だということですし、後者は誰の言うことも斟酌しないということです。これをしっかり意味を取って伝えていかないメディア。残念だとしか言っていないのにそれで追及を約束事のようにやめてしまうメディア。これが非常に駄目だと思います。場によっては、残念とは何事だ!とその場で激昂するのが正しいのです。
吉田照美さんのラジオの特集は「男子の失言アレコレ」。様々な事例が実演されます。
喋るより失言をしないことにエネルギーがいるというのはあると思います。あと、ネットとかで文字だけだと、本当に間違って伝わりやすいと思います。
だらだらと書けば誤解を避けられることもあるんですけど、それを書く気がせず、ぽんっと出して、あとで間違えられないかずっと沈痛な気持ちが続くとか(^_^:)
放送では、結局自慢系や押しつけがましいのが嫌われている印象。澄んだ気持ちでまっすぐ行くしかないのが結論ではないかとおもいます。
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