高崎山サル:英王室「名前の付け方は所有者の自由だ」

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「高崎山サル:英王室「名前の付け方は所有者の自由だ」」(http://mainichi.jp/select/news/20150508k0000m040118000c.html)は日本で皇室の人の名前を猿に名づけると右翼に襲撃されて大変だから、ということもあって、こういった問題になっているのだと思います。

右翼は犯罪者予備軍であってそれを野放しにするのは普通の感覚では犯罪です。イギリスにはいないんでしょうね。

8日の荒川強啓さんのラジオでは賛成派の宮台真司さんと反対派の荒川強啓さんの間で議論が白熱!

日本の天皇の名前を付けられたらどう思うのか、と荒川さんがここまで反論するのは見たことが無いくらいで、GHQの憲法改正に対して日本側が男女同権と象徴天皇制にだけは強硬に反対した、というのを思い出しました。近い意識はあるのだと思います。

宮台さんは最初は反対派が多かったのに、英国王室が好意を示すと賛成派が増えたということで、人の意見を忖度する日本人を批判。

リベラリズムの話としてなかでも出て来ましたけど、人の嫌がることをやらないのはそれ以前の人間の基本で、それを否定してしまうとなにも成り立たなくなってしまいます。

ここに(ポストモダンというのか)戦後思想のあやうさが良く表れています。

その忖度が、例えば利益を得たいとか、のけ者にされたくない、とか身体的な苦痛を負いたくないとか、個人的な煩悩から由来するものである時にだけ批判されるべきだと考えます。それも苦痛の度が増えればそれも忖度されなければいけませんが。

戦時中がこういう時にはすぐに例に出されますが、戦時中も軍部や政治家・メディア・産業界をはじめ私利私欲で動いて戦争に突入していった実態が明らかになっています。

この基準で明確に捌いていくべきだと考えます。

過度に気を遣う「忖度政治」という立場からこの問題を切っていましたが、以上の理由で思いやりという意味での忖度を戦争の原因として、日本人の宿痾として糾弾する歴史観は実際の真逆です。

例えば天皇近辺に局限しても、プレッシャーもあって明確に意思表示ができなかったとも言われていますが、昭和天皇は開戦には消極的だったといわれます。

日米開戦に至ったのも、軍部に天皇の気持ちを忖度する能力がなかったからと言えないか。

私は日本に右翼がいることを問題にするべきだと考えます。右翼の暴力がなければもっと意見を自由に表明することができ、社会の潮目も変わり、そもそもの「忖度」の意味がなくなると考えるからです。

宮台さんは、猿が侮辱だという概念から疑うべき、とまで言っていましたけど、この議論は白人種が他人種を猿という蔑称で呼んでいた歴史の積み重ねを無視しています。

今回は付けることで決まりましたが、猿ということで思い出すのは「オバマ氏をサルにみたてたグッズに非難 日本のCMも」(http://www.newslogusa.com/?p=267)です。

寛容なようですけど、イギリス王室が強者だからで、マイノリティに対して同じ感覚でいると当然痛い目に合いそうな雰囲気がありますが、そこら辺の綾は報道では扱われていない感じ。

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