(広島・長崎・核)持たざる日本、技術脈々 戦後70年・第5部

#その他文化活動

「(日曜に想う)肥満のトカゲ、垂れたカキ 特別編集委員・山中季広」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11881259.html)では

たしかにイチからやり直すというのに、混迷を招いたお偉方はだれも退場していない。(中略)

大艦巨砲、干拓、ダム、五輪。戦前から日本では国策となるとお上がブレーキを失う。破綻(はたん)するや「内心は反対だった」と言い訳する。あげく「状況が変わった」「誰も悪くない」とかばい合う。これを無責任の体系と呼ぶ。

と高みから見下ろすような他人事ですが、大手メディアが繰り返してきたままここでも一番責任が重いといえるJSCやゼネコンの責任は問われていません。

これは無責任体制とは、メディア・論壇が利権で無責任にも責任の所在を指摘しないことによって生じるものであることを示しているのではないか。

リベラルを装う、偉そうなだけで腐敗にまみれた、無能な論考である。

そのうちゼネンコンについては直後の「(政治断簡)「新国立」工費膨張、闇を照らせ 編集委員・前田直人」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11881328.html)の記事に取り上げられていますが、経過や具体的な内容、建設会社の名前などに触れられておらず著しく不十分です。

「闇」があるのはメディアが光を当てないからです。

それらを明らかにしたうえで、一番影響力が大きいテレビ報道の不備について正さないと新聞としての役割を果たしているとは言えない。

新聞単体での影響力はテレビに比べると僅少で、せいぜい道義的責任、ありていに言えばメディアのアリバイ作りくらいにしかならないからです。

「(広島・長崎・核)持たざる日本、技術脈々 戦後70年・第5部」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11881260.html)では

日本の政治指導層に、核への執着が脈々と受け継がれているのは確かだろう。それが表に出なかったのは、悲惨な被爆体験に基づく「核なき世界」への思いが強いことが大きい。

とのことですが、文章がつながっているとは言えません。

政治の監視はメディアの役割であって、それが正常に働いていなかったと考えるのが素直な論理です。

これまた、論外の視点として論壇やメディアが正面から取り上げなかったからではないか。それは圧力を嫌った拝金主義なのです。

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