「デモに参加すると就職に不利? 「人生詰む」飛び交う 後藤遼太記者」(http://www.asahi.com/articles/ASH7W5SYRH7WUTIL03M.html)は憂える雰囲気を出してカモフラージュしつつ、学生運動を潰そうとしている記事であると話題。大手メディアは、何かリベラルな方向性を装いつつ、中身を読むと市民を潰しにかかるような、こういうカモフラージュ記事が多いですよね。
病巣を突くでもなく、批判するでもなく、学生に対する脅しの意味が感じられます。
同じような感じで司馬遼太郎さんの、革命初期の人間はみんな死んでしまって、その後ろに隠れていた世代が利益を得る、という言説も、何か社会運動を激しくやるとむなしく死んでしまうような印象を読者に与えたと思うんですよね。
もちろん高杉晋作とか何人かはそういう人だったかもしれませんけど、生き残って栄達した人間もいますし、全般的にそうだとは言えないでしょう。もちろん先行世代が先に死ぬのは自然の摂理ですけどね。
司馬遼太郎さんは社会運動を嫌っていたと思うので(「学生運動と酩酊体質」という講演を参照。ほかでも、そういう運動に共感を示した文章を知らないですね。)、そこら辺に意図的にオーバーラップさせていた可能性はあると思います。
「ぬやま・ひろし」さんを何度か取り上げるのも、こういう運動を続けていると、こういう感じになってしまうんだぞということを見せつける意味さえあったように感じてしまうのですが、それはどうなのかわかりません。
講演録では、その周囲に吉田松陰について話した講演がありますけど、危険性を覆い隠して高い評価をしているなという印象。吉田松陰が玉木文之進に畑から突き落とされた話は、創作説も聞いていますが、講演でも堂々と語っていますね。さんざん調べましたけど、一次資料が出てこないエピソードです。
講演録を調べなおしてみると、ちらっと眼に入っただけで結構突っ込みたくなる部分が散見。
武士の道徳については「名こそ惜しけれ」で説明していますけど、これは周りからの目を気にするということですよね。
司馬遼太郎さんには、常に道徳は外的拘束によってもたらされるものだという先入観があるんですよね。
仏教でも儒教でも、内側から自然に出る内発的な徳性を鍛えることに主眼が置かれているんですよね。もちろんそれを思想として取り入れていた武士たちも例外ではありません。
恥は大切だし名こそ惜しけれという考えもありましたが、内発性がメインであり、それですべてを説明すると偏ります。
これは教科の「道徳」という外側からのタガしか徳育に用意していない政府の態度と重なります。また、それでなければ徳育全般がいらないというように反発する、多くの論者の二者択一の態度の根にも同じような認識が観察できることが多いのです。
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