(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47434)はホームページの閲覧ランキングでもトップの話題の論考。
私はもちろん学校における現在の道徳教育には強く反対の立場ですしここで批判されている教材内容についても憤りを覚えます。学校は法によって支配されるべきだと常日頃強くいってきました。
しかし、徳育はされるべきだと思っているので、そういう立場から、徳育(道徳教育)そのものを法律の学習に置換しようとする本論に、批判と修正を試みたいと思います。
法の本質は、「普遍的な価値を追求する規範だ」という点にある。
普遍的な価値とは、どんな人にでも正当性を説明できる価値のことを言う。
(中略)
道徳は同じ道徳観をもつ人たちの間のルール
(中略)
しかし、内部の人にとっては守るべきルールであっても、その外部にいる人たちには自分たちのルールを押し付けることは許されない。
とのことで法の普遍性が道徳に優越するものだ、というのが主張の骨子。
歴史的には確かに法律もありましたけど、洋の東西を問わず徳治主義などと言って、社会を道徳によって組み立てていた期間の方が長かったともいえるわけですよね。
警察機関を支えるような余剰の富が少なく、より徳性に頼らないと社会が回らない状況が歴史的に長く続きました。
歴史的にはしっかりとした法治主義によって治められている(ようにみえる)現代の方が期間的に短いわけで、まず歴史的な経緯から普遍性という言葉に疑問があります。
さらに例えば仏教では、道徳というのは人の本質的な部分から湧いてくるものだと考えます。
つまり生物学的な必然から出てくるものだという主張であって、であれば人為的な法律より普遍性が高いともいうことができます。
説明という言語を基準に普遍性を定めるのが適当なのか。人の心という不定形のものを扱う時にそれだけでは不足だというのが私の考えなのです。このような観点に立った場合、単純に法律の方が普遍性が高いという議論は成り立たないと思うのです。
以上の議論から得られる私の結論は、至ってシンプルだ。学校では、道徳ではなく、法学の授業に時間を割くべきなのだ。
とのことですけど、一般的な日本人なら法律を具体的にどれだけ知っているかは違いがあるにせよ、ほとんどの人は法律的に善悪を直観する法律感覚は持ち合わせています。
それでも法を犯してしまうのは「わかっているけどやめられない」からであり、法律を具体的に学ぶことによってどのような経路でそのような状態に陥ることを防ぐのか明瞭ではないと感じます。
実際に良く法律を知っている人ほど抜け道を探そうとして法を犯す、などともいわれています。
私が普段東洋の理念と言っているような正しい徳育は多角的に欲に負けている状態・「わかっているけどやめられない」という状況に陥ることを防ぐものであり、法律を学ぶことでそれが代替されるとはとても思えないのです。
あえて言えば徳性と法律が両輪のように社会に深く根を下ろしている社会こそが最も健全な社会であると私は確信しているのです。そういう私の立場から言うと本論の主張より出てくる社会は私にはとても危ういもののように感じるのです。
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