(憲法を考える)自民改憲草案・個人と人:上 人権、削られた「獲得の努力」

#その他文化活動

http://www.asahi.com/articles/DA3S12328426.html)では

 「草案の根底には、近代化そのものを否定したい、個人主義など『近代の病』にむしばまれた社会を救済したいという欲求があるんじゃないでしょうか」

 日本の近代を研究してきた片山杜秀・慶応大学教授は、こうみる。「ただそれは、単純な復古とは違って、『安上がり』な国家にしたいという希求をはらんでいると思います。このまま少子高齢化が進めば福祉の切り下げが必要になる、でももう国家は面倒をみませんよ、個人主義を排して、家族や共同体で助け合ってくださいね、と」

とのことですけど、近世の日本は「孝」を奨励しており、親の面倒をよく見た個人には報奨金を出していました。つまり国が主体になってお年寄りを支えようというシステムで、それが明治になって無くなったとされています。(文明国をめざして (全集 日本の歴史 13) 牧原 憲夫 (著))

つまり「「安上がり」な国家」は明治の近代化の所産なのです。

現に現政権の思想を見渡してみると、よりどころとしているのは明治の、戦前の日本です。

これを間違えて前近代であるとすると一気に議論が真逆の、明後日の方向に行ってしまいます。

片山さんの論考は面白いですけど、根っこを間違うといつまでたっても明後日の方向を向いた文章を書き続けることになりますよ。

手広くやっていたけど基礎が間違っていた人だったね、という学者としての評価になりかねません。

現代・近代を語るには近世を知らなくてはならない。そこの研究がドラスティックに転換しているのですから、また一からまっさら状態で情報をインプットし直してもらいたいと思います。

一方「(憲法を考える)自民改憲草案・個人と人:中 「利己主義」の抑え役、本来は」(http://www.asahi.com/articles/DA3S12330307.html)では

 「明治憲法下では、社会福祉を定めた条項もなく、炭鉱の過酷労働など、強者や権力者が『利己的』にやりたい放題の社会だった。それを変えたのが、権力に対する『個人』の尊重という考えだったのですが……」と小林さんは言う。

と小林節氏が戦後の歩みの否定で戦前回帰であるというコメント。これは当然妥当で、アカデミックに遺されたものから考えるとそうなるということなのだと思う。

「宗教学者・島薗進×憲法学者・小林節 「自民党の改憲案は『個性を持った個人の尊重』という原則を捨て去ろうとしている」」(http://wpb.shueisha.co.jp/2016/06/17/66753/2/)も一緒に読むとここら辺はわかりやすい。

前も「昭和初期ロマン」という言葉で表現しましたけど、戦前の研究家の片山杜秀さんは戦前をかなり理想的に語ることがあります。そういう意味で、「戦前回帰」ではなく「近代の否定」という風に言い換えたのではないかと思います。

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