「漁釣図」は釣りをして隠棲をするという文人の理想を描いた絵。中心に屹立する葦が何かを訴えているようです。
司馬遼太郎さんがとくに盛んに言っていたと思うんですけど、中国人(士大夫)は儒教の影響で身を労さない、といわれますが、ここでは身を労して生産しています。
一方で日本の釣り文化と言えば「江戸の釣り―水辺に開いた趣味文化」( (平凡社新書)長辻 象平 (著))によると江戸期の武士は生産に携わっていると思われると沽券にかかわるので、釣った魚を食べずにあくまで趣味だとアピールしていたとのこと。
それに比べると文人は生産はする感じですよね。
士大夫階級が習得しなければならないとされた六芸にも「射」や「御」がありますし、日本と比べて、中国の士大夫が身体を労さないという言い方はある面虚像ではないかと思う。
司馬遼太郎さんがこの話をする時に必ず引いていた「君子は心を労し小人は身を労す」という言葉も、調べるとこれは春秋左氏伝の記述で、君子は為政者、小人というのは人民のことで、特にいやしめる意味はないみたいです。文脈から言うと、それぞれの力で国を富ましめようというニュアンスだと読み取れると思います。
なので解釈は曲がっているといえますし、歴史書である分厚い左氏伝の一節に中国の精神を代表させるのは(仮に解釈が正しかったとしても)証拠として弱いと感じます。
(この前に「和光同塵」の解釈がおかしいという話をしましたけど、司馬遼太郎さんは古い言葉の意味を正確に引いてこないので本当に油断ならないというか、恣意的だなぁ、という感じがします。
氏の書を推薦する人たちはせめてこういった所を正して注意喚起に務めてもらいたいと思います。)
中国・韓国が経済発展を遂げてから、中国人(士大夫)は身を労さない、という言い方はほとんど聞かなくなりました。
この中国・韓国人は身を労さない、というのはいかにも伝統的な分析の皮を被っていながら、マックス・ウェーバー的な世界観の中で、あと付け的に、当時の日本と中国・韓国の経済格差を説明したものだったのではないでしょうか。
司馬遼太郎さん得意の、儒教もしくはアジアへの不当な侮蔑を多く含んでいたと思います。
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