しかし、例えば国粋主義的な人が常に、そうでない人より劣っているとは思いません。
やっぱりある種の思い入れが愛国心やエスノセントリズム(自民族中心主義)を喚起するのはあることではあります。
音楽でもシベリウスとかショパンであるとかわが伊福部昭であるとか、国を強く意識していました。
モーツァルトも手紙を読むとイタリア音楽に対するドイツ音楽の発展といったものがすごく強く意識されています。
大作曲家に民族的な気概を持つ人はすごく多いですよね。そういう思い入れを内包した形で傑作を発表し続けたといえます。
ただ、彼らが差別的だったかといえばそうとはいえない。
そういう「愛国的」なエネルギーに、心身が硬直しているとか理性が足りないとか寛容性を阻害する、他のマイナスの要素が入ると差別主義者になりやすい。
なので、一応他の人に比べるとそういう感情のエネルギーがあることがあるので、私は基本的に音楽とその人の政治信条は区別して考えます。
それでも黛敏郎などはその範疇から外さざるを得ない。曲も大したものだとは思いませんし。
しかしもしかしたそこら辺のひょろひょろとした「リベラル」風の作曲家よりは優れている差別的な作曲家というのは存在するのかもしれない。
ただ、本当の巨匠でそういう人は知りません。(なのでやっぱり最近は、政治的な信条がだめだと芸術内容も大したことが無いな、と思うような考えに傾きつつあります。)
エスノセントリズムがだめだから愛情そのものも排除してしまおう、という考えやそれに相当するニュアンスの発言は危険です。
エスノセントリズムという言葉は良く司馬遼太郎さんが使っていましたけど、その一方で、愛国心(パトリオシズム)の大切さを説く文章は無かったと思う。
おおざっぱに言ってしまえば愛国心がだめだから愛もダメだ、というような流れが戦後の日本社会・論壇に今に至るまで強くあるのは事実だと思う。司馬遼太郎さんはその代表といえると考えています。
「右翼」も「左翼」もそれを分かちがたいセットのものとして認識・議論している人が戦後はほとんどだったといえます。
しかしその純正な愛国心(パトリオシズム)のなさが自益を優先して破局を招いた原発事故やその処理や諸々の愚かな政策、本当に直近では豊洲の地下空間問題の無責任などにつながって、国が崩壊しかかっているとすら言える状況になっているといえます。
なので「エスノセントリズム=愛情」という図式から抜け出して、国として、そして世界が愛を一段高いレヴェルに昇華しなければならないというのが私の考えなのです。
結論としては愛情の定義に問題があって、愛情というのはもっと理性を含めた総体的な現象なのではと思いますね。
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