は安倍の真珠湾訪問について。中国に行かないのは論理的整合性が無く支離滅裂でこれで支持率が高いのは「大人の学力低下」であるとのこと。
支離滅裂なのは当然なんですけど、いつものごとく「学力低下」と問題を指摘してしまうのはいかがなものか。
「(東京)東大生 安定志向?自民支持が上昇」(http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20160620131420001.html)というニュースと向き合わなければなりません。
これは東大生に戦争賛成が圧倒的に多かった戦前と同じ傾向です。金子さんのような問題点の指摘だと失敗を繰り返すだけだといえます。
こういう無反省な流れを作ったのは丸山眞男ではないかというの以前指摘したことです。
ここは大切なところだから理にそぐわない総括は厳に慎むべきだと私は考えているんですよ。
金子さんも論理的な整合性が無くても意見を変えないところがけっこうあるんですよ。評論する側でしっかり批判されないからそれが残ってしまうんですね。
色々な情報を適切に関連付けて問題点を探り解決しなければなりません。
ラジオに戻るとトップが責任を問わないということが経済的な行き詰まりを招いているとのこと。
最近は無責任の人たちの面々が責任追及しないことを第一としている「失敗学」の人の理論を奉じていますけど、この学問を誰も批判しないのは不可解なことです。
読んでるとは思えないが小池百合子が愛読書として挙げている「失敗の本質」には、一兵卒は勇敢だったがトップがだめだった、と書かれている。それが何も生かされていない、とのこと。
一つはトップにしっかりバランス・総合力のある人材を配置できるような仕組みが当時からないんですよね。
身体性・精神性・実務能力、すべて失格ではないですか。知識も広範でバランスが取れているという意味であれば怪しいと思う。
この前将棋の話をしましたけど、当然私は将棋を指せば立派な人間になるといったような楽天的な考えは採用していません。
かつての日本の人材育成には琴棋書画といったような多角的な教育があったのです。そういう大切な総合性の一つとして将棋が位置付けられるということを言いたかったのです。
もう一つは、以前にも書きましたけど、無責任社会に至る理由として日本人の意識が大きいと私は考えているんですよ。
難しい試験を突破した人たちだから多少間違っていても責任を取らなくていい、任せておけばよい。厳しくすると受験勉強をさせる動機が弱くなっちゃうじゃないか。そうなると国が弱くなるんじゃないか。
と潜在的に考えている日本人が多いことに由来していると考えています。
表現するならこれは西洋依存主義であって、福沢諭吉主義ともいえるものです。
それに対して、伝統的ともいえる多角的な人間教育こそ、行われなければならない、それが国を決定的に富ましめる、というのが私の意見なのです。
そういう人間が責任を取る社会にしますし、責任を取らせることでそういう人が育ってきます。
もはや治外法権といってよいほど権力筋は責任を問われなくなりましたが、無責任社会は戦前以来の日本の宿痾であって、こういった価値観の土台から観直していく必要があります。
(理系の人はむしろもっと勉強した分報われるべきだと思いますが(理系でも総合的な人づくりは当然大切ですが)、特に文系の人は総合的な判断が求められる立場を請け負う可能性が高く、こういう能力の作られ方では困るんですよ。)
対ロ外交も失敗したが「朝日新聞に至ってはプーチンは躊躇したと書いている」とのこと。あれはいったい何を言っているのか不明だったんですけど、やっぱり滅茶苦茶な記述だということなんですね。
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