で姜尚中氏は、教育勅語は儒教の思想で書かれている。森友がヘイトの対象としている中国の思想であり、神道とは相容れない、と指摘。
しかし、教育勅語が儒教だというのは間違った江戸観を前提としたフェイクだと考えるべきだと考えます。
江戸に行われていたものが儒教だとしたら、必ず「主君押し込めの論理」を有しているということです。
儒教は孟子によって身分制的な意味での「忠義」が言われはじめたといわれていますが、易姓革命とセットです。
教育勅語のもとになった朱子学もその流れの中にあるといえますし、そもそも朱子学は教育勅語的なことは何も言っていないという人もいます。
教育勅語は似非の伝統なのです。
儒教だということにしてしまうと彼らにしっかりとしたバックボーンがあるかのような逃げ道すら与えてしまいますし、何より事実と違います。
あくまで真実に則り、古典と「極右」を切り離すのが、「極右」をしっかり批判し、相対的な「ある意見」にさせないためにも重要なことなのです。
同じように「教育勅語の素読」も素読を隠れ蓑にしていますが、教育勅語を否定しようとして、素読まで否定しようとするとある意味術中にはまります。
ちゃんとしたものさえ読めば素読は有効な教育法といえるからです。
かつての「保守対革新」のような気分で「革新」が保守を批判するような論理で「極右」を批判すると、最悪どっちもどっちというようなことで片付けられかねないのです。
もちろん国家神道は神道でもありません。
国家神道はキリスト教をモデルにしているともいわれていますが、本来のキリスト教とは隔たりがあり、カルトとしか言いようがありません。
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