「「反知性主義」への警鐘 相次ぐ政治的問題発言で議論」(http://www.asahi.com/articles/ASG2G559HG2GUCVL014.html)はいろいろな意味で使われる「反知性主義」という言葉を、主に、大衆の知識層に対するルサンチマン、といった視点から論じたもの。
ここにはそういう視点は書かれていませんが、大衆の反発を招くのは「知識層」が実は本当の智慧に全く達していないことも、影響しているのではないかとおもいます。だから市民を納得させることができない。
ポピュリズムで困ったものだ、といった論調ですが、政治的ポピュリズムと同じく、そういった部分の至らなさや、偏った議論、まさに反知性的な社会の各所のシステムの禍々しさは、抗議される原因になっています。
わたしが今まで書いてきたとおり、ものすごい権威といわれている学者でもめちゃくちゃなこと言っている人はかなり多いです。
現在知識層といわれている人でも、変なことを言っている人が多く、本当に頭の良い人は指折り数えられるくらいのものです。
私も日頃指摘しているように、論壇は突っ込み所満載の未熟で歪な議論に満ち満ちています。
だからそういったものをしっかり観察して、おかしいのではないかということを言っていけばよいのですが、そういう方向にはいかない。それは学校教育や就職などで割り振られてレッテルを張られているうちに、自分に見切りをつけてしまっているからだと思うのですよね。
実際に智慧であるとか智慧を発揮するポテンシャルが無いのではなくて、自分には智慧が無いと見切りをつけて諦めた瞬間に、反知性主義に陥りネット右翼化するのだと思います。
そういう意味では、これも、学校教育が不足している、といった話ではなく、高度に文化的な問題だともいえる。
仏教で伝統的に三毒の中で言い表されて来た「愚癡」であるといえます。自分を空観でみれば、そのように無駄な比較をして振り回されることが無く、自然に知性的に振る舞えるのです。
スラムダンクの安西先生の「あきらめたらそこで試合終了だよ」はネットで一番共有されている言葉の一つです。わたしはこの言葉をネット右翼層に贈りたいと思います。
そしてそれは、安倍自身にも当てはまるのだと思います。
こうやって観ていくとこの視点から観た「反知性主義」もよくいわれたところの立場主義であって、それは我田引水であり、仏教用語でいえば我執・身びいきです。
偽装や捏造や嘘や利益による党派性ばかりの政治もすべてこれであるといえます。
仏教の空観といった思想はそういった我執を超えるために日本で伝統的に大切にされてきた文化ですが、それが全く捨て去られているのが、一番の根っこの原因だといえます。
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