9月24日のサンデーモーニングではそんなに呼ばれない佐高信氏がいましたが、このことの専門家としてコメントするためにいたのだと思う。
かねてより松下幸之助や稲森和夫の会社に忠誠心を持たせて、仕事に没頭させて働かせるスタイルを批判。余暇を楽しむホンダのライフスタイル・社風を称賛するのが佐高氏の評論スタイルでしたが本当に後者が優れているのかというと、私はかねがね疑問を持っています。(彼らの経営がそれらを理想的に体現したかどうかはまた別の話です。)
忠臣蔵の歴史的なその話の受け止められ方ですが、江戸時代はむしろ反権力的な話として受け止められていたことは有名です。
忠義という人の心の内側から湧き上がる自由な心によって江戸幕府の禁制を破ったという個人の心の勝利を謳い上げる物語として受け入れられていたようです。
これは私の解釈ですが、今でいう漫画における「愛」のような感覚で忠義ということを捉えていたというとわかりやすいと思います。
(「「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?」(http://toyokeizai.net/articles/-/148532)のような話であるとか、いまだに事実はわかっていませんが、社会での、演劇としての受け止められ方はこうであったといえる。)
これが歪められたのが明治以降。天皇への絶対的な服従を要求する戦前の天皇制によって物語の意味は大きく変えられることになります。
戦後には「忠義」という言葉が反社会的なものとして槍玉にあがることになります。
しかし、上司が部下を大切にして部下は上司に誠を尽くす。時には組織のありかた自体を否定するようなことを言うことも含めて「忠」の姿勢で向き合う。
これは現代も含めて普遍的に大切なことですし、人として自然なことでもあると思うのです。
また、楽しめば仕事自体が余暇になるような働き方は従業員自身の負担を劇的に減らし、理にかなっています。
また遊び心が仕事に反映され、発想勝負の現代では非常に有利になります。
それと本当の余暇をダブルに取ることで精神的に豊かな国になるのではないか。
指弾されるべきはそのような状況ではないのにそのような状況であるかのように強制して働かせるブラック的な企業なのです。
佐高信氏はこのような一発で直る法律的な部分には触れず。忠義や仕事に没頭することなど(的外れに)精神面を批判せずとも、法律を直せばすぐに改善される部分なのです。
佐高氏の意見はある種の的外れな、歪んだ戦争の総括である。
それは過労死の時代のモーレツ社員に対する一種の批判であるとともに、戦前の精神主義への批判でもあります。しかし、問題意識はあるものの解決策が的外れな点で、司馬遼太郎氏の土地に対する意見なども思い出しますね。(あれも土地公有論などと実現不可能なことを言わないでただ固定資産税の増額を主張すればよかったんですよ。
戦前の偏りがあって、戦後に反対側に振れて、いまこそ中道に回帰するべき時代が来ていることを強く感じます。)
佐高信氏は猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」を批判していましたけど、佐高氏自身も実は天皇制のグロテスクさに正面から向き合っていないのが原因ではないかと思う。
また戦前の精神性を江戸の延長と捉える歴史学の水準、それを引用した丸山眞男の「理論」の影響などもあるでしょう。
私は封建制は全く論外で時代遅れだと思っていますが、そこで培われた精神はいたづらに否定するのではなく、リフォームすることで次代に生かせると考えています。
そういう意味では忠義という伝統的な概念ではなく、戦争の総括としては、非論理的で強制的で愛情に欠け率直さが存在しない天皇制こそ問題にするべきだったのです。
本当に人間的に理想な形で、自然な形での「忠」と「義」というものを大切にしていく。仏教用語でいえば三昧ですけど、仕事を楽しんで没頭していく。また法律的にしっかり余暇を確保する。こういうことが今後の日本に大切なことなのではないかと私は思っています。
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