サントリー美術館 京都・醍醐寺-真言密教の宇宙- 第3展示期間

宗教・思想・哲学

行って参りました。

本展は中国巡回展の帰りで日本でもやっている感じらしい。密教は中国伝来だから、律宗などと同じく中国への思いが強いようですね。

入った会場には四分の一球が鏡で真球にみえるように工夫されて置かれていて、クリスタルの中に宝珠が収めれているようで密教的。

会場内がところどころ黒い幕で仕切られているのも密教っぽい。

また桜がタイル状のガラスの中に展示されていて、これは秀吉が醍醐の花見で楽しんだ桜のものとのこと。
クリスタルに桜が閉じ込められているようで神秘的で美しいですね。




最初の作品「如意輪観音坐像」は如意輪観音像の代表作でもあるとのことで優美さ極まる印象。火焔のように逆立つ光背が剛直でバランスが取れています。
ゆるやかにして謹直な感じです。密教の仏はみんなこのように寛いだ感じのものが多いと感じます。密教の神秘性が表されているのだと思う。
近世以前の密教はあらゆる宗派の基礎でしたが、仏教全体からそれが失われたとともにこういった風格までも失われてしまったのかもしれません。

開山の「聖宝坐像」もそういった高層のゆったりした姿がしのばれますね。

聖宝上人は奈良で従来の仏教を学んでから真言宗を学んだらしい。そういう基礎の教学が確りした感じの落ち着いたお寺ですね。

「醍醐寺縁起」はお寺のいわれが書かれています。醍醐寺の醍醐は醍醐味の醍醐らしい。カタログによると仏教こそが心にとって最高の栄養という意味が込められているのだそうです。

カタログによるとそもそもが聖地で巌信仰があったところにお寺を作ったとのこと。高野山と同じですね。そこから染み出した湧水が醍醐味と評されたのですね。



「空海像」はよく教科書に載っているものですね。でも室町時代のだから写しなのかな?

「大日経開題」は弘法大師の直筆。自由闊達な流れがあって太い書ですよね。

「金銅九鈷杵」は南宋時代のものですけどむしろラマ教チックな品であるとのこと。
元の時代はラマ教とも呼ばれるチベット仏教がほとんど国教でしたので、日本にも影響があったみたいですね。
チベット仏教は密教の色彩を帯びているので日本でも密教が見直された可能性がある。
年表でもこのころに醍醐寺が中興されているので、そういった大陸の動きの余波があったのではないかと思います。

「両界曼荼羅図」は「金剛界曼荼羅」と「大悲胎蔵曼荼羅」からなりますけど、それぞれ中央集権的な感じと地域分散的な感じがしますよね。人の心身にも同じことが必要という教えなのだろうか。

密教自体も大日如来の絶対的な中心性と様々な仏の多様性を誇ります。

「五大尊像」はインドの香りがしますね。

「五大明王像」は大迫力の仏像群。空間そのものが炎上しているかのような印象を与えます。

「帝釈天騎象像」は普賢菩薩のようですね。

「閻魔天騎牛像」は閻魔大王の唯一の彫像とのこと。

「不動明王坐像」は快慶作。冠のようにせり出した火焔光背が熱力抜群。直立した姿に品格があります。


「虚空蔵菩薩立像」は聖観音だと思われていたのが、資料が見つかって虚空蔵菩薩であることが判明したとのこと。
そういわれると(仏教の教えを象徴する)虚空を宿しているように感じられます。

虚空蔵菩薩ってなんか雰囲気が不思議ですよね。無属性というか。これが宇宙の雰囲気というものでしょうか。




「訶梨帝母像」はいわゆる鬼子母神。
しかし、ちょっと改心しただけで神様に祭り上げられるのが納得がいかない気も。何かバイアスがかかっている?
そもそもが悪魔なので普通ではない力があるということなのか。

ちょっと改心という点では、キリスト教の聖母マリアもその範疇かもしれません。

「不動明王図像 良秀様」は自分の家が火事になった時に本物の炎を観察することができて喜んだといわれる良秀の描く炎。確かに生々しい生動感がありますけど架空の威勢の良さは消えている気も。




「薬師如来および両脇侍像」は素晴らしい大仏。大きいとやはり格別の存在感があります。重さが感じられそれは地の文鎮のようだ。胸ははだけていてまさに胸襟が開いた状態。人々の心を大きな御仏の心で全て受け止めるかのようです。

形式通り蓮の上に鎮座していますが、軽さが表現されている共に、まるで水滴が下にこぼれずにバランスで留まっているかのようでもあります。

肉髻珠の赤がビンディーのようでアクセントになっています。

全てが大きい。その存在の大きさが気持ち良くいつまでも場を離れがたい大仏でした。

平安時代の大仏の中でも傑作ではないか。これは本当に誰にでも一見の価値がある大仏です。

両脇侍は小さめで大仏を大きく見せる効果があるのかもしれません。蓮の茎を持つ姿が繊細です。




ここで年表があって、1428年に足利義教将軍就任時のくじを醍醐寺が作ったのだそう。なんと。

さぞかしこのような寺は廃仏毀釈でダメージを受けたに違いない、と思っていたのですが、カタログによると実際に深い爪痕が残ったとのことですが寺宝は一紙たりとも外に出さなかったとのこと。これは珍しい。

寺の二流をともに守るという方針があったから、という解説でしたが、釈然としない感じも。
密教だからあまりものを表に出さない寺風だったとか?
ほかの寺が寺を経営しつつも信仰心を失っていく中で、仏法こそが心の醍醐であるであるという寺の方針が生きたのだろうか。



そういえば後醍醐天皇が密教風の姿を好んだのも、醍醐寺の醍醐を名に冠したころから一貫しているのかもしれませんね。




寺の障壁画は誰の作か定まっていないらしく色々と説が変遷した後、今は長谷川等伯ではないかという説が有力らしい。
「三宝院障壁画 竹林花鳥図」の狩野派独特の岩に大和絵的な自然描写はまさに長谷川派です。

(中国絵画の流れではありますけど、狩野派はこの岩が発明かもしれませんよね。実際にこういう岩はなかなか無いですから。それが枯山水に繋がったのかもしれません。)

「三宝院障壁画 柳草花図」の強い枯れもまさに等伯らしい。

ただ等伯の作品は今まで保存状態が良いものばかり観てきましたからこればかり退色しているような気がしてそこは気掛かりですね。



京都中心からちょうどいい位置にある、品の良いお寺の蓄積された伝統の香りを嗅ぐことができる展覧会でした。ありがとうございました。

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