太田記念美術館 没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳 後期:〈遊び心と西洋の風〉

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後期も行って参りました。

なんでも、普段から国芳のまわりには数匹から十数匹の猫がたむろしていたらしく、家には猫の仏壇があり、死んだ際の戒名を書いた位牌が飾られ、猫の過去帳まであったそうな。
かえるを捕まえて庭に放して声を聞いていたそうです。

「猫のけん」は猫が狐拳をしているのですが、三すくみであいこ。よくみると坐り方も着物の上から推測するに、立膝・あぐら・正座と三すくみで、ここら辺に幕末当時の坐り文化の意識が表れているのではないかと思います。
「金魚尽くし 酒のざしき」は金魚がひれでお酒を飲んでいる図。

「流光雷づくし」は雷様が柄杓で雨を降らせたり、稲妻を怖がっている図。

当時の信仰というものは、個人差もあるでしょうけど、結構こういうもので、美術番組の解説とかでも、当時の人は鯰が地震を起こしていると信じていた、と真面目に解説が入ったりしますけど、その伝でいけば、何百年後の人が日本を発掘したとしたら、朝の占いコーナーをみて、迷信深い時代だったと結論する可能性があると思うのですが、どんなものでしょうか(^_^;)

「亀喜妙々」は、禁令による締めつけもまったく効果のないほど幕末の世相は活気に溢れていたのである、という解説で、そういう禁令の中から生まれた、役者の顔をした亀たち。
2000枚摺ったが50枚しか売れなかったとの事。逆に言えば、同様の他のシリーズはかなり売れたということでしょうか。
幕府の命令は物によってはあまり効果がなかったらしく、そこをみていくだけで、大分江戸時代のイメージが刷新され、真実に近づきます。
よく読むと勝海舟もそれらしいことを、ぽつぽつと話していますよね。

「全盛黄金花」は小判を投げる紀伊国屋文左衛門とそれを拾う人たちの図で、お金に無頓着な国芳のクールな視点で描かれているとの事。

国芳は江戸っ子で宵越しの錢はもたなかったそうです。

司馬遼太郎という人は「本所深川散歩・神田界隈」で江戸っ子はいなかった、と書いています。この本はその事を書くためだけにやったようなことがあって、氏は折々に触れて江戸っ子はいなかった、というのですが、なんでそこまで江戸っ子はいなかったというのか。
それは江戸っ子が経済を中心としたノモスに対して、唾する存在だったからではないでしょうか。

江戸時代は経済で回っているのが素晴らしい、と氏は言っていて、それはそのまま戦後日本に対する眼差しだったと思うのですが、経済中心の江戸、という像を江戸っ子は壊しかねない存在だからだと思うのです。

(ただ、ヨーロッパの農村に、日本人が、俺ならホテルを建てる、といったという話を批判していたり、土地投機に対する批判をしていました。しかしどちらもそれぞれ、景観、土地をいじくることに対する批判で、経済原理に対する批判はなかったと思います。
昔、氏の土地論を読んで、政府ぐるみの取り組み、今中国でやっている早期のバブル潰しの様なものをなぜ提案しないのだろう、と思ったものでした。

作品について例を出せば「三井の番頭」が最高の形容詞として使われる「峠」ですとか、(この言葉、出典どこなんですかね?)そろばんに通達していた事が強調される西郷隆盛ですとか(「佛國三十萬の兵三ヶ月糧食有て降伏せしは、餘り算盤に精しき故なりとて笑はれき。」という言葉が、とりあえず西郷南洲遺訓にあります)、油売りの設定の斎藤道三ですとか(出典の資料が怪しいらしい。それに確か同資料の武道に秀でているとういう面は端折られていた)、世界の海援隊の坂本龍馬とか(この言葉は真偽に異論があるらしい)小説はこういう線で一貫していたと思います。
島津家は石田三成に複式簿記を教えてもらって財政再建したそうですし?、史観としては、なんでも第二次世界大戦の日本で最弱の部隊は大阪の郷土連隊で、経済から来る合理主義的な視点が戦争から距離を置かせていたとのこと。(ウィキペディアによると、ただの風説らしい

))

原子力村というのは利権の複合体なわけで、これは典型的な拝金主義だといえるでしょう。現実ではそれが今日まで判断を狂わせているわけです。
今回の原発事故で、経済を中心とするノモスの破局を宣言できるのではないかと思う。
そしてそれを乗り越えて作り出す世界は、再生可能エネルギーに象徴されるような、おそらく真の、一回り大きな経済合理性を備えた社会なのではないかと思います。

人物解説があって、国芳は江戸っ子で、堅苦しい礼儀作法は好まなかったとの事。画料は弟子に配分していて、暮らしは極めて質素だったのだそうです。芳年が追悼の絵を描きたくなった気持ちももっとも至極です。
浮世絵業界というと経済的な淘汰の側面から良く語られますが、国芳自体が遅咲きですし、こういう一門をみているとそういうものに対する防波堤といいますか、バランスが取れていたんだなと思います。
写楽がどうも売れなくてやめたわけではない、という研究もここらへんの文化像を変えていくのかもしれません。
江戸という都市は経済とそれを跳ね返す心意気の両極のバランスの上にあって、文化の華を咲かせたのだと思います。

娘が二人いて両方とも絵師だったのだそう。浮世絵師の中で最も多くの門人を抱えていたらしく、北斎とかより多いんですかね。

「竜宮城 田原藤太秀郷に三種の土産を贈」には画面内に横文字の走り書きがあるのですが、コレクターの人が書いたと回りの人が話していて、皆さんのお詳しい!

作品番号154番位からは狸シリーズで、き○たまネタです。このき○たまネタはいつからはじまったんでしょうね。浮世絵史上では国芳からでしょうねぇ。

「国芳雑画集」はリアルな百面相が笑える画帳。これは北斎漫画にも似たようなのがありますね。ふぐのまねは流石にありませんかね。
これだけ描くのは、流石に国芳もかなり工房生産だったんでしょうねぇ?

年譜で眼を引くのは北斎と会った事がある、というのと、畳三十畳敷きに水滸伝の豪傑を描いたことがあるという記事。
他には、染物屋に生まれたので、そういう色彩が得意らしく、国芳の絵によって刺青ブームが江戸にまき起こったのだそうです。日本の刺青の水準は異様に高かったと聞いたことがあるような気がするのですが、詳細は良くわかりません(笑)黥面文身の習俗が比較的最近まで残っていた日本ならではでしょうか。
当時の歌舞伎の演目に浮世絵師歌川国芳の役があるのだそうです。

「当世流行見立」は当時流行の住吉踊りなどの踊りや大道芸を集めた三枚続。心が綺麗だと踊る姿も美しいものです。正面からみると重なって一直線にみえる、高い腕の構えが素晴らしいです!
この絵は背後に控える富士山が異様に大きいです(^_^;)「「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)ロナルド トビ (著) 」 では、著者が北斎が沖縄から富士山がみえる、と主張していることに呆れていますけど、江戸っ子ならUFOに乗って宇宙からでもみえる、といったに違いありません?(みえますね)
ほとんど何かの抽象概念ですな。

「桜下身づくろいの芸者」ですとか、美人画もいくつか出ていて、結構良いのですが、肩が何やらもっこりしているのが特徴で、これは国芳の自画像も同様です(^_^;)

地下の「<憧>洋風画」のコーナーでは国芳の作品は西洋の銅版画がオリジナルのものが多い、ということで、そういう作品を集めたもの。
しかしなにか積極的に消化して行こうというより、これはただの借用ですな。
足の筋肉をリアルに描こうとして、逆に鳥居派のみみず描きに近くなってしまったのだそうです。

「東都名所 浅草今戸」はオリジナルより構図が動的になっているとの事。
あんまり写実にこだわると、構図を動的にしたり奥行きを出せないんですよね。なので日本画と西洋画の長所をあわせている、といってよいのではないでしょうか。

「東都名所 佃嶋」は川にスイカや桶やらゴミが浮いてる図で、ブラタモリでやっていたような、ゴミ都市としての江戸が彷彿とします。こういう意味での写実も、当時の社会に興味があるものにとってはありがたい。

ちょっと前までは広重の方が日本では人気がありましたが、当時の番付では国芳の方が上なのだそうです。
前にAKBの話を書いた時に思いついただけでかけなかったんですけど、総選挙をやめて番付制度にしたらどうですかね。もうちょっと総合的な判断で決めるという。。。
さっしーは人気があるしいい子だけど大関じゃさっしーっぽくないから、前頭三枚目にしておこう、とか柔軟な判d(売れなくなるので、以下省略されました

売れる売れないは時によりけりで「大衆は抒情的な広重を選んだ」とカタログにあって、北斎好きの研究家も半ば嫌味に、大衆は北斎より広重を云々、と書いたりするのですが、広重こそ描かないことで描く抑制の美学であって、抒情とくくり難い滋味があります。
それを好んだ江戸の市井の人の審美眼は優れたものだと思います。

極めて気合の入った展覧会で、観に来る人もみな熱心な人ばかりでした。まさに無限の発想力で、国芳は流石に凄いです。ありがとうございました。

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