GPIFのアメリカへのインフラ投資の記事について。
GPIFの「真ん中にろくでもないやつがいて」とのこと。独裁的に動いている組織らしい。普通のメディアの報道をみているだけではだれが何をやっているのか全くつかめないんですよね。
大手メディアが癒着をしているので官僚の動きは全くブラックボックスです。
ツイッターで学者さんとかが呟くようになってこういう本来知られなければいけない基礎情報をやっと垣間見ることができるようになってきました。
私が当然思うに、メディアは、GPIFの年金使い込みへの追及を常に忘れてはいけません。
簡単に、高齢化社会になったから年金が足りない、とテレビはしゃあしゃあといいますが、本当は高齢者が積み立てていたものを彼らがすべて使ってしまったのです。
このような「嘘」をいうのは閉鎖的な記者クラブにテレビが加入しているのが原因です。
後半は、メルケルなど欧州のリーダーによるトランプ政権の保護主義や入国制限に対する批判、トランプ政権に近づく安倍政権の人権意識の低さについて。
「ナチス」の模倣を掲げる人たちに何を言ってもは思ってしまいますが、これは言わなければなりません。
ただ批判を浴びせる側に対する「違和感」を私は感じるんですよ。
一つは、「(耕論)蝶と風と、壁と アーサー・ビナードさん、藤永康政さん、高橋芳朗さん」(http://www.asahi.com/articles/DA3S12719242.html)でアーサー・ビナードさんが今回民主党が負けたのはグローバル企業のためにメキシコ国境をわざと開けていた、ということがばれてしまったからだ、と朝日新聞紙上で指摘していました。
グローバリズムの勝者、最も恩恵を被っているドイツがそういった、いわばグローバリズムの欺瞞を指摘せずに、批判だけをするといのはバランスとして適正なのだろうか。
デモに参加しているグローバル企業出身者たちは、そういう歪なグローバル企業優遇策に対してどれだけ批判の声を上げたのだろうか?今批判しているのだろうか?
もしかすると、結局は利益の取り合いをしているにすぎないのではないだろうか?
一つは、トランプは本質的にエンターテイナーであり、プロレスラーであり、それは批判する側の声を必須不可欠なものとしていること。批判の声を叫んでわざわざ手助けするのはいかがなものか。
批判は批判なのだろうか?心理学的にも言われる通り、批判をして火に油を注ぐより無視した方が良いのではとすら思うのです。
デモをやるにしてもシュプレヒコールを上げるのではなく、その分のエネルギーで冷たくトランプ関連企業を不買するとか、賑やかさを排した「冷ややかなデモ」を画策するべきだと思う。ただ、不買運動自体は相当やっているみたいですね。
一つはサウジアラビアを指定していない時点で、制限か開放かというような2項対立に見える議論の場に乗るのはいかがなものか、ということ。
支持者にはトランプが仕事をしているかのような印象を与えるでしょう。
あまり報じないのは日本だけでアメリカではこの問題を強調しているのかもしれませんが全体的にそういう印象になってしまいますよね。
批判しないのは良心の欠如もしくは腰砕けだと思いますが、批判する側に対してこのような視点が無いことにも私は違和感を禁じ得ないのです。
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