一方日本については「身分制が厳格」と述べていますが、これは古い研究をもとにしたものでしょう。
日本史については20年前の資料といまでは真逆になっているようなものが多いです。
対して小倉さんは「朱子学のくびき」による、「国民を一律に縛る道徳の厳しさ」を指摘。私が理解して縮めるに、言ってしまえば国民全体の原理主義的な考え方が韓国の現代まで受け継がれていると主張。
私は前提に考えなければならないと思うのは、国家というのは近代化すると原理主義的な考えが強まるということ。
日本では天皇制のもとにそういう傾向がありましたし、戦後でもお金が価値の中心になりますから、すべてがそれに基づいて価値付けされ、価値観が一元的になりやすい。
韓国でいえばナショナリズムですね。「グローバル化の加速が自分たちを守れという「閉じる力学」を社会にもたらし」ているという趙さんの指摘ですけど、これはここ150年強まってきた傾向でもありますよね。
一方で職業の多様化などはあるのですが、同時進行で一元化も強く進んでいる、という形になる。
白川静さんの用語でいうとノモスですけど、そういう傾向が強くなってくる。
双方示し合わせたかのように、趙さんは現状を「韓国の日本化」と表現し、小倉さんは「日本の韓国化」と表現。
双方ともお互いの現代を指さして、それは近世の(日本・韓国)が硬直していたからそれを引き継いでいるんだ、といっているわけですが、近代化というものの性質をよく考えて、安易に過去と現代を結ぶことを戒めなければなりません。
客観的な学問とは何なのだろう、どこにあるのだろう、という思いも強く持たされます。自覚的に育成しなくてはならないところです。
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