続いての「Midnight Session」では國分功一郎さんが「徳」という言葉に興味を持っているということを。
徳というのはルールを守ることではなく身体で反応できなければいけない。身体が習慣で反応できなければいけない。とのことを。
仏教はルール(戒律)によって本質的な徳性の改善(仏性)を目指しますが、こちらでは徳性を守る性質を持った上での場による違い・ヴァリエーションを問題にしている模様。
似たような分野を扱ってもたいてい西洋哲学は分類志向で東洋哲学は深み志向。
文化特性の問題は参考になるんですけど、一方で、「徳」といっても習慣の先にこうした本質的な改善(無意識の改善)を見詰めないといわゆる今日的に陳腐化した意味での「道徳」に留まってしまうでしょうね。
道徳の授業については「従う人間を作り出したいという欲望丸出しの企画であって言うまでもない」とのこと。
私は道徳という言葉がかわいそうとすら思います。
また徳は習慣と関連付けられる一方で、逆に余計な習慣を排除しつくすことで、徳性を追い求める思潮が東洋では強いです。(商の原始神道的なもの→)老子→禅、の流れです。
こういったことで面白かった最近の書評の
「道徳性の起源—ボノボが教えてくれること [著]フランス・ドゥ・ヴァール」(http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015030100008.html)は
「道徳性こそ、人間を特別な存在だとみなす大きな根拠となっているのだ。
しかし、その道徳性は私たちが思っているほど人間固有のものではないことを本書は明確に示す。」
とのことで、実際は
「人類が類人猿と分化してきた進化のかなり早い段階で道徳的な感情を発達させてきたことを示唆している。」
とのこと。
基本となっている考えはキリスト教的なものですが、今回科学で明らかになった道徳はより原初的なものだという見解は仏教の「仏性」の概念と一致すると思います。
コメント