行って参りました。
手前で横切ったキトラ古墳展の行列がものすごいことになっていましたけど、栄西とそんなに違うんですかね?
ちっちゃな部屋なので一度に入れる人数が少ないのかな。
展覧会は伝統的な読み方に従って「ようさい」と読ませていますが、どうもパソコンの初期設定では「ようさい」では栄西とは変換されません。主催者が調べた結果、建仁寺などどこに行っても「ようさい」読んでいたとのこと。逆に言うとどこで「えいさい」と読むようになったのか気になります。
実地の文化と完全に切れて適当に本だけを読んでいるような人が勝手に読みを決めて教科書に載せてしまったのではないかなどと想像します。
階下のVTRでは、興禅護国論の序文を引用して栄西の目指した境地を説明していて、
お寺のホームページから引用すると。(http://www.kodaiji.com/entoku-in/sermon/column/howa/1168691186.html)
「なんと心は大いなるものか。天の高さは極めることが出来ないほど高い。けれど心はその上に出ることもできる。地の厚さは測ることができないほど厚い。けれど心はその下に出ることもできる。日月の光は越えることができないほど速い。けれど心はその光を越えることもできる。星の数や海岸の砂は数えることができないほど多い。けれど心はそのすべてをとらえることができる」
とのこと。
時間も空間も超越した自由な境地を目指していたとのこと。
栄西の孫弟子の道元の正法眼蔵。なかでも「有時の巻」は時間論を扱っていることで有名ですが、仏教そのものにそもそも時間の意識があるのは注目されるでしょう。
老子の影響もあるのかもしれませんね。
興禅護国論はこうやってみるととても良いことが書いてありますが、あんまり昨今の仏教の中では話題にならない感じ。
「興禅護国論」という名前自体が、国家と密着した仏教を批判する戦後の時流に合わないのだと思いますが、国に宗教的な精神を反映させるのは現在欧米でも大切にされていることです。原発について宗教者もあつめられて議論をしていたのは記憶に新しいです。
そういう意味では、アメリカは福音派との関わりなどで苦闘していますが、仏教はそういう非科学的迷信と無縁なのでもっとすんなり近代国家に高雅な精神を反映させることができるのだと思うのですよね。
さらには政教分離に至るような、宗派間の軋轢も、極めて穏やかなものです。
政教分離は調べてみると、宗教戦争の反省という部分がとても大きいです。政治に対する宗教的組織の影響力の排除、というのは当然あるのですが、だからといって宗教的な精神を政治に反映させること自体をやめてしまうのは、政教分離に対する大きな誤解と言えます。
理神論なんかは、絶対王政にまとわりついた部分のキリスト教は切り離したいのだが、その精神はなんとしても生かしたい、という試みといえるでしょう。
ちなみにフランス革命当時は宗教に寄らないで道徳を確立していた東洋の哲学に対して賛嘆の声が上がっており、啓蒙思想の一群の著作の起爆剤になっていたとのこと。
理神論もそういう意味で東洋的な発想からきているのではないかと思っているのですけど、ズバリ関連があると書いた文章は今まで読んだことが無いですね。
こうやってみていくと、仏教は本来、近代国家と極めて相性が良い温雅なもので、これを国造りに反映させないのは宝の持ち腐れと言えます。
100~200年後の日本人は、この相性の良さからくるアドヴァンテージを大きな幸運として噛みしめていると確信しています。
というわけで、長い時間をかけて涵養されてきた精神的伝統の精粋である宗教の精神を国に反映させるのは当然やらなければいけないことです。その精神性が国を守る、というのが「興禅護国論」であるといえるでしょう。その言葉にプラスの意義を感じるようにならなければならないと思います。
また、当時の仏教は、国家に対しても言うことを言う集団であり、西洋のカトリック教会のような指導的な立場でもありました。第2次大戦の時のような国家との癒着のしかたとは本質的に違った、といえます。
角川文庫の発刊の辞にも書いてあるように、第二次世界大戦は若い文化力の敗北でもありました。しかし、戦後の日本は文化をすべて投げ出してしまったと思います。それは反省ではありません。
この手痛い文化的敗北を反省して、本来の文化を立て直すことこそ、今後の日本がなすべき仕事といえるでしょう。
主催者のあいさつの所には、栄西は荒れた末法の世に何とかしようとして活躍したということが書いてありましたが、戦前戦後最近の滅茶苦茶ぶりを観るにつけ、当時は末法の世の序の口だったな、というのが正直な感想。
また、現実否定とセットで語られることが多い末法の世ですが、鎌倉新仏教の人たちはそのような空しい思想を説いたわけでは無いという所には注意しなければなりません。
最近みた出光美術館の「日本画の魅惑」のホームページの解説では近世を「現実肯定」といっていますけど、近世が中世に比べて現実を謳歌する人が多かったのは確かですが、中世の人が「現実否定」をしていたわけではありません。
現実をやたら否定したわけでは無く、「一遍上人語録」などを読んでも、せっかく人に生まれたのにその形を保つのは難しい。という嘆きが綴られています。
正しく表現すると中世の人たちは、現世を謳歌しようとする心を否定しようとする現実を否定しようとしていた、とまとめられるのではないでしょうか。
そしてその哲学は現代においても、困難に直面する人にも、順調な人へも多くの示唆に富むものだといえます。
「「徒然草」は無常観の文学とよく言われますが、むしろ兼好は、現世をいかに生きるべきか、価値観がめまぐるしく変わる時代に情報に流されずにどう生きるか、いかに楽しむべきかを探求したのです」(サントリー美術館ニュース250号 上野友愛)というのは、すべからく中世の思想の従来の解釈に言えることでしょう。
中世の人たちが厳しい環境でそれを克服するために生み出した思想を、厭世的と一言で片づけるのは、ぬるま湯に浸かった現代人の驕りであって、全く正確ではありません。
栄西のその特徴はものすごい幅の広さと水のような流動性。
展覧会が開かれるたびに、日本のダヴィンチのようだ、と宣伝される人は結構いますけど、そういった人たちと比べてもかなり幅が広い感じ。
ただ、それは中国(南宋)の文化の移植という面が大きくて、栄西個人の功績に帰しづらいということなのでしょう。
そのやや雑多ともいえるありかたが、今の禅しかやっていない臨済宗の立場とやや違うので挙揚しづらいというのもあるのでしょうか。
「プロローグ 禅院の茶」はお茶の文化の祖としての栄西を。
「四頭茶会所用具 一式 中国・明時代・16~17世紀江戸時代・17~18世紀 京都・建仁寺」はその最初期の形を残している茶会を再現していて、まさに建仁寺に来たかのような感覚になります。
中央の栄西の掛け軸の両隣に龍虎の掛け軸が飾られているのも印象的。禅・茶道の覇気を感じます。
唐物尽しで、素晴らしい文化財が満ち満ちています。こういう形式として禅を残していくのはすごい大切です。そしてまた観るものもこういったものを空観で持って観なければならないな、と禅文化の側面から感じました。
「明庵栄西坐像 1躯 鎌倉時代・13~14世紀 神奈川・寿福寺」は理想化されているとのことですけど、造った人に言わせれば恐らく内面を彫ったということになるのでしょう。
「長命富貴堆黒箱 1合 中国・南宋時代・12世紀 神奈川・鶴岡八幡宮」は南宋で金の役人から貰ったらしく、そういう関係があるのか、平和な時期もあったからねと思ったら、カタログによると研究者も不思議がっているらしく、敵国同士なのでどういう関係だったのかよくわかっていないとのこと。
「明恵上人消息 明恵筆 1幅 鎌倉時代・12~13世紀 京都・建仁寺」は非常に親密だった明恵からの書状。栄西が送ったお茶の種から、栂尾のお茶の栽培が始まったとのこと。
「明恵上人伝記」((講談社学術文庫 526) 平泉 洸 (著))には栄西が明恵を後継者に欲したという記述がありますが、今回の展覧会にはそういう話は無し。ウィキペディアをみると栄西に将来を嘱望されたという話はありますね。
一時期弟子だったとはいえ、なんで華厳宗の明恵を後継者に欲するのかと思ったんですけど、そこら辺は実にフレキシブルな人だった模様。当時のおおらかな宗派の違いに対する感覚もあるでしょう。
「東大寺大勧進文書集 1冊 江戸時代・18~19世紀 奈良・東大寺」は重源の跡を継いで華厳宗大本山の東大寺の再建の総責任者になったことを示す文書ですが、そういう縁もある模様。当時の禅は新興のイメージが強いですが、栄西は南都六宗の保護にも熱心だったとのこと。
「勅額「扶桑最初禅窟」 後鳥羽天皇筆 1面 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 福岡・聖福寺」は仙厓さんで有名な聖福寺ですが、今回は全く出てこず。むしろ中世に名僧が逗留したことが特記されていて、国際都市博多の中核であったことが示されます。
秀吉の桐紋が描かれていますがそのまま飾ってあったとのこと。そこら辺はおおらかです。
「沙石集 巻第十 無住著 1冊(10冊のうち) 室町時代・16世紀 国立公文書館」は一宗一派に偏らないで書かれているのが特徴とのこと。栄西と建仁寺はそもそも天台・真言・禅の三宗兼学だったとこのことで、最近までは純粋な禅に至るまでの過渡的な形態だと評価されていたのが、最近は諸宗融合を評価されているとのこと。
その一方で「興禅護国論 栄西著 利峰東鋭筆 1冊(3冊のうち) 江戸時代・17世紀 京都・両足院」は一派としての独立を宣言したものとのこと。
「正法眼蔵随聞記 巻第一 懐奘著 1冊(3冊のうち) 江戸時代・慶安4年(1651)版 東京・駒澤大学図書館」は極貧の中で仏像を施す栄西が書かれたもので、道元にはその気風の影響がすごく強いのでしょう。
「喫茶養生記 栄西著 1冊 江戸時代・元禄7年(1694)刊 京都・両足院」は源実朝が二日酔いの時に茶を勧めるとともに進呈した書をまとめたものとのこと。大伴旅人の讃酒歌を思わせる話で、やはり詩人の気質なのでしょう。
カタログの解説によると、この書には密教の身体論・養生観の影響が色濃いとのこと。
研究者が仏教と併せて身体論という言葉を使っているところは注目ですね。
「隠語集 栄西著 1帖 平安時代・12~13世紀 愛知・大須観音宝生院」の隠語というのは、まさに現代の隠語の意味そのままで、エロ系の言葉で仏教の秘奥を述べた密教らしい著作。ここら辺はそういう密教の著作が主に展示されていて、思っている以上にそっちの色彩が強い人だったんだな、ということが感じられます。
近世以降の臨済宗についてはそこそこ知識がありますけど、栄西の世界についてはそれではつかめないのだなと感じます。
調べてみると、建仁寺では以降の住持も密教を兼学しているのが普通だったらしいとのこと。
今はあんまり双習出来る環境に無いんではないですかね。お弟子さん同士の交換会をやったりすると良いのではないでしょうか。
これに限らず昔のお坊さんはいろいろな宗派を渡り歩いた末に自分に合う宗派をみつけて極めて行ったりしていたんですよね。今ではそういう環境に無いか、普通にそういうことができなくなっているのが、宗派主義を招いて普遍性に至り辛くしていているのではないでしょうか。
ここに年表があって、47歳になっても中国に行って学んでいるのが印象的。
インドに行くつもりだったらしく、結局はいけなかったとのこと。なので路銀が余っていて当時の中国のお寺の修復などを盛んにやっているそうです。
明恵がインドに行きたがっていたという話を聞いて、突拍子もないことを考えてた人なのかなとも思たんですけど、身近な話しとしてそういうのがあったんですね。当時の仏教界の雰囲気もよくわかる展覧会でもありありました。
空海のように18歳の時に虚空蔵菩薩求聞持法をやっているとのこと。当時はみんなやっていた感じなんですかね?やはり効果はあったのでしょうか。
「建仁寺ゆかりの僧たち」には歴代の住持たちの姿を写した仏像がたくさん。
「退耕行勇坐像 1躯 鎌倉時代・14世紀 神奈川・浄妙寺」の前では横の人が、眼がウルウルしていると讃嘆していましたが、玉眼の工夫によって眼に生気があるとやっぱり命が宿りますよね。
味わいのある素晴らしい表情。まさに遺徳をしのぶ雰囲気があって、弟子はこれを観て師匠の禅機を思い出していたのでしょう。そのあふれる内容に、偶像崇拝という非難について考えさせるものがあると思います。
手印は現在スタンダードな手重ね。これ以前の仏像にはむしろあまり見かけないと思います。
また、現代のお坊さんの座禅は背筋を張り過ぎていて観ていて気持ち悪いものばかりですが、ここのフロアの座像は適度に丸くなっていて、まさに自然体。これは武術界の自然体の概念から良く疑問視されていることです。
どこかで伝統が変わってしまったのではないかと思います。写真であるとかを直感的に観ていくと沢木興道師あたりの影響が強いのではないかと感じています。
「蘭渓道隆坐像 康乗作 1躯 江戸時代・延宝4年(1676) 京都・西来院」は渡来僧。「無涯仁浩像 中巌円月賛 1幅 南北朝時代・14世紀 京都・正伝永源院」は元にずっと留学していて、帰ってきてすぐに建仁寺のトップになった人。
鎌倉幕府は「十方住持制」という制度を取っていたらしく、相国寺は夢想国師の系統、東福寺は円爾の系統といったものが無く、優れた人は誰でもトップにしていたとのこと。ここでも栄西の流動性の遺徳を感じます。
そのようなわけで渡来僧であるとか、中国で修業していた人がぽっと帰ってきてトップに就くとか、そういうことができたのが建仁寺の特徴であるそうです。
これは現代でも身につまされる話で、留学生の減少について、若者の内向き志向とかパラダイス鎖国といわれますけど、そういった議論はまず留学してきたものがぽっと日本に来てトップになって腕をふるえるような環境が出来てからと言えます。
文部科学省は大学を作って天下りをとにかくしたいようですが、その前に志を立てて、国の行く末のために現代の建仁寺を造り上げることこそなされるべきです。
「一山一寧墨跡 雪夜作 一山一寧筆 1幅 鎌倉時代・正和4年(1315) 京都・建仁寺」は見事な狂草。
「布袋図 清拙正澄賛 1幅 南北朝時代・14世紀 福岡・開善寺」は袋を持って喜捨を求めていた渡来僧の清拙正澄を布袋と重ねたもの。原点であり、結縁の一種だったんでしょうね。
「清拙正澄墨跡 遺偈 清拙正澄筆 1幅 南北朝時代・暦応2年(1339) 神奈川・常盤山文庫」は没後に作ったものなので賛を左から書いているもの。
「蘭洲良芳坐像 1躯 南北朝時代・14世紀 京都・清住院」は足利義満が南朝にとらわれそうになった時にかくまった人とのこと。
「第3章 近世の建仁寺」では応仁の乱で大ダメージを受けた後に復興された際に蓄積した文化財を。海北友松のものが特にたくさんあるらしく、建仁寺の別名は友松寺であるとのこと。解説も、無限のグラデーションで気宇壮大な絵を描く、ということで、売り出して行こうという気概を感じる表現です。
特に龍の絵は朝鮮でも有名だったらしく「雲龍図 海北友松筆 8幅 安土桃山時代・慶長4年(1599) 京都・建仁寺」は流石の迫力。雲のグラデーションが龍と渾然一体になって実在感を与えていて、中心の渦が力強いです。
「第4章 建仁寺ゆかりの名宝」では「雲版 1面 鎌倉時代・14世紀 京都・建仁寺」に国土泰平と書かれていて、護国仏教の祈りが感じられます。
「毘沙門天立像 1躯 鎌倉時代・13世紀 京都・霊源院」は片手に水晶のような宝塔もってバランスを取る姿に智慧と力を感じさせます。
「伝観音菩薩坐像 1躯 南北朝時代・14世紀 京都・興雲庵」は厨子に入っていて、内部は黄金のひかりが乱反射しており荘厳の一言。秘仏めいた趣があります。
「十一面観音菩薩坐像 1躯 南北朝時代・14世紀 京都・清住院」は衣の装飾が見事でその衣自体も繊細な装飾が細かく施されています。ふっくらした手が実に魅力的。11の顔は菩薩の本質的な表情の豊かさを伝えます。十一面観音という菩薩像は本当に仏教をよく伝えるために考えられていると思います。
「地蔵菩薩坐像 1躯 室町時代15世紀 京都・六道珍皇寺」は簡素で堂々としたお地蔵様らしい地蔵菩薩。堂々としていて、神像の様な正面を向いた姿に内的な迫力を感じさせます。
「維摩居士図 1幅 鎌倉時代・14世紀 山口・洞春寺」は胡散臭い表情の羅漢で、こういったものは五代十国の時の江南の禅月という人が始めたので、禅月様と呼ばれるとのこと。
「十六羅漢図 良全筆 6幅(16幅のうち) 南北朝時代・14世紀 京都・建仁寺」は水墨画のような仏画が始まった最初期の作品であるとのこと。そういえば鎌倉までは精緻で緊密な作品ばかりですよね。
「三教図 伝如拙筆 罕?濬・正宗龍統賛 1幅 室町時代・15世紀 京都・両足院」は儒道仏の三共は一致していると示す図。こういったものが禅寺にあることに意義があります。
たしか仙厓さんは神仏儒で描いていましたけど、唐物全盛の室町時代と比べて、国学の影響とかがあるのですかね。
「布袋唐子図 雪村周継筆 1幅 室町時代・16世紀 京都・正伝永源院」は雪村らしい不敵な布袋図。
「楼閣山水図 盛璧筆 1幅 中国・清時代・19世紀 京都・両足院」は怪しい洋風画。どちらかというと明時代に移入された古い系統の西洋画であるとのこと。
「唐人物・花鳥図座屏 狩野孝信筆 1対 江戸時代・17世紀 京都・高台寺」は仙術が描かれた道教的な作品。
「竹林七賢図屏風 長谷川等伯筆 6曲1双 江戸時代・慶長12年(1607) 京都・両足院」は晩年に友松の影響を受けて描かれた作品とのこと。
「松竹梅図襖 海北友松筆 4面(12面のうち) 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 京都・禅居庵」は牧谿調の気迫の籠った名作。
「拾得および鶏図 伊藤若冲筆 3幅 江戸時代・18世紀 京都・禅居庵」は遠くからでも一発でわかる特徴的な若冲の作品。
「涅槃図 1幅 中国・清時代・17世紀 長崎・春徳寺」は中国にもほとんど残っていないタイプの絵で民間信仰が取り込まれているとのこと。
とても大きく、狩野一信調の雰囲気も感じられます。
「滝山水・寿老人図 金有声筆 梅荘顕常題 2幅 朝鮮・朝鮮時代・18世紀 京都・両足院」は朝鮮通信使についていた宮廷画家が描き残していった作品。
建仁寺には朝鮮のものがかなりあるとのこと。従来は中国の作品であると鑑定されていたのだそうです。
「白釉山羊形手焙 仁阿弥道八作 1基 江戸時代・19世紀 京都・正伝永源院」はかわいらしい名作。
いろいろ充実していて、「こんなお宝もってるんだ」という観覧者のつぶやきが聞こえます。
「十王図 2幅 中国・清時代・18世紀 京都・六道珍皇寺」はあの世で十王によって繰り返し行われる裁判を描いていて、東洋版の最後の審判といえるでしょう。
東京国立博物館の出開帳的な展覧会の中でも、幅の広さと流動的な融通無碍さが際立っていて、それは栄西という人の個性なのだと思います。
内藤湖南氏が今の日本を知るには応仁の乱以後について研究すればよいといったのは有名ですが、その是非は別として、その応仁の乱以後的なものを文化面でそれを分けるのは栄西・建仁寺の文化の広く定着したもの、というのが一つの要素として大きかったのかな、と感じました。
広くも深い展覧会だったと思います。ありがとうございました。
本館7室にも関連展示があるというので行ったのですが、海北友松の「琴棋書画図屏風」は女性がメインの文化的な作品。
時間が少なめだったので急いでいったのですが、途中で横目に入った屏風を観ておっと思うと、やはり良寛さんの作品。枯淡な味わいが誠実の極みです。
浮世絵コーナーは太田記念の特集と合わせたかのように相撲絵がたくさんありました。
キトラ古墳展は相変わらずのものすごい列。
上野駅前では毎日やっている、被災地の動物を助ける募金(詐欺)を。いつもと違う工夫はお札がたくさん入れられた募金箱をスケルトンの容器に入れてみせていること。みんな入れてますよというシグナリングですが、その工夫の甲斐があったのか、私の目の前でOL風の人がお札を。実際に入れている人を見たのは初めてかもしれません。
およしなさい、詐欺ですよ。というわけにもいかず、連中を睨みつけるくらいでしたが、実に忿怒に堪えません。
本当に日本の警察はこういうのに興味が無い。市民がどうこうとか町の風紀が、というのには興味が無いのでしょうね。
警察がやらないのであれば大手メディアなどが取り上げるべきですが、そういうのもやらないので、こうやって入れてしまう人が出るのでしょう。
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