「JOC会長 強化費配分見直しをけん制」(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140630/k10015631381000.html)では大越キャスターは「難しい問題ですね。」とコメント。なにをうわごとを言っているのかと。
未来世紀ジパングの「ニッポン再発見シリーズ⑤知られざる東京ホテル戦争」もなかなか面白かったです。日本もバックパッカーに行きやすい国になることは、国際社会でやっていくうえでの最低条件ですよね。
「(池上彰の新聞ななめ読み)集団的自衛権と世論調査 国民の迷いが伝わるか」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11162987.html)には「集団的自衛権に関しては「必要最小限」というのが、どこまでのものかが、まさに問われています。」とのことですが、報復の連鎖を生む集団的自衛権に「必要最小限」というものは存在しないことを伝えなければなりません。いかにも注文を付けているようにしながら政府に擦り寄る池上さん流のやり方の特徴が良く表れています。
題名は「国民の迷いが伝わるか」ですが、ノーを突きつけているのが実際です。拝金主義で「バランス」を取っているのではないでしょうか。
「(文芸時評)猫と漱石 見えるのは青空か廃虚か」(http://www.asahi.com/articles/ASG5V5QBPG5VULZU00N.html)
の前半は漱石について。やっぱり
で書いたようなことはある感じですね。
近代的自我と東洋的無我が違うものであると最初に言ったのは漱石なのではないですかね?
それで結局東洋的な精神を捨てなければ近代化はできないということになって、横井小楠のような日本の伝統的な精神をますます極めつつ西洋科学を極めていこう、といった精神は隅に追いやられてしまったのだと思います。
ここに書かれている「猫ニナル」の主題はリービ英雄さんの小説「星条旗の聞こえない部屋」の有名な生卵を飲むシーンに近似していて、それほど新しい主題でもないように思います。
後半は原発事故について。
「丸山眞男が「無責任の体系」と名付けた日本的意思決定機構の問題が繰り返された。」
とのことですけど、「繰り返された」のではなく繰り返したのです。このようなところで紙幅を得ながら個々の責任について触れずにこのように書く片山さんに無責任の責任は非常にあります。
続いては「浅田彰×東浩紀「特別対談 『フクシマ』は思想的課題になりうるか」(新潮6月号)」を取り上げつつ「文化人の冷笑主義が「無責任の体系」を結果として援護射撃する。」とそれを批判。これは全くもっともです。
対談の内容は「危険性は十分に指摘されていた。「予告された通りの事故」が起きたにすぎない。」とのことですけど、この二人が警鐘を鳴らしていたという話は聞いたことがありません。まずその事実を重く受け止めつつ議論を展開するのが当然の感覚ではないか。
朝外に出たら心臓発作を起こした。これはありうることだ、といった程度の論理ではないか。
心臓発作を起こすということは当たり前の可能性なのですが、実際に人はこれにショックを受けて文学を書いたりします。
なぜそのようなことをするのか?
それは人に身体があるからです。痛かったり衝撃を受けるので、そこから考えざるを得なくなるのです。
つまり原発事故は予測されていたことだ、という冷笑主義は身体性の喪失(とそこから来る共感する能力の欠如)が深く関係しています。
(
でちょっと書いたことも関係しています。)
この二人は現代思想・構造主義の権威として著名です。
構造主義があらゆるものを相対化し、身体性というものを埒外に置いているために、根本から価値というものの判断基準が狂っている、社会を狂わせているのではないかという話は、書いて置いてあるんですけど、まだアップできていませんね。
この冷笑主義の根源は青少年を中心に蔓延するニヒリズムや、質的に変化していると自覚されている少年犯罪とつながっています。
事故後に福島のために何を発言するでもなく原子力ムラ的な発言を繰り返してきた人間がこのように居直る醜悪さ。
こういう人たちが日本の思想界で通用しているということ自体が、原発事故に匹敵し、サッカーの結果すらも上回る惨状だと思うのです。
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