大竹まことさんのラジオの金子勝さんは、経団連の政治献金復活について。
「無責任なサラリーマン重役」への批判。
室井佑月さんは企業のトップは「道徳心とか社会貢献もしなくちゃいけないということでしょ」ということですけど、その通りです。
しかし、サンデーモーニングなどを始め、無責任社会への批判はたくさんありますが、実際は無責任社会を支えている人たちがたくさんいるわけです。本当は、私が無責任社会を支えています、という人と無責任社会を批判する人の数は逆であって然るべきです。
そういう面から観ると、政治家が人格が良い必要はない、政策が良ければよい、と言い切る金子さんはむしろ無責任社会の強力な推進役だったと思うのです。
同じように(自分にとって)というカッコが付くにしろ、政策が良ければよいという基準で実際に昭和には政治家が選ばれており、金子さんの考えはそういった集団を代表しています。
もしそれは違うというのであるなら説明が必要でしょう。
ここの論理的な矛盾を放置して、他人事のように批判側に回ることこそ無責任ではないか。
ちょっと話がそれますけど、先週には貧乏ゆすりの話をしました。
確かに身体によいのは確かですが、ただ、貧乏ゆすりが万能なわけではありません。
貧乏ゆすりという形だとどうしてもゆするところが決まっていたり、ほぐし難い奥の方が放っておかれる傾向があります。
そういった所を意識化してゆすっていくところに、日本の古くからあるゆする系統の健康法や、それを受け継いだ野口体操を代表とする体操の意義があるといえるでしょう。
そういった部分はその人の考え方とも関連していて、貧乏ゆすりというほぐし方の健康効果が、金子さんのとりあえずの明晰な優秀さと、良く観ていくと感じられる矛盾、と対応しているように感じています。
貧乏ゆすりという体操から得られる効果と金子さん自身の思考の構造に、非常に共通するものを感じるのです。
また、今回の話を普通に聴いていても皆が感じることだと思うんですけど、倫理違反が横行しているとして、それを改善していくロードマップが無い。
それでいて、伝統的な精神には、明治以降と江戸期以前をごっちゃにして、まとめて「新・反グローバリズム――金融資本主義を超えて」(岩波現代文庫)の52ページで切り捨てています。ここでは伝統と言ってもどの時点でも選択できるということで「ぬえ的」と表現されていますが、江戸期と明治の間に大きな断層があるのが確かであり、それ以前を伝統とするのが、客観的な意見といえます。
しかも、批判のしかたが論理的ではない。
私が普段引用するように、中村元さんのであるとかまともな伝統的な精神をまとめた本があるにもかかわらず、同51ページでは歴史修正主義者の書いたものばかりを集めて批判しており、選択が著しく恣意的である。
そもそも自国の精神を批判する時は注意深くそのピュアな部分を探ってから批判しようとするのは、良心的な人間が誰しもが考えることです。
経済学がくだらない学問であることを証明するために竹中平蔵を批判するに等しい。
関連する部分としては、「新反グローバリズム」の同138ページに書かれているナショナリズム論は稚拙で時代遅れである。ハンティントンの文明の衝突レヴェルの浅はかさといえます。
それにやっぱりここでも、伝統的な「徳(モラル)」を切り捨てる一方で、例えばそれなら新しい徳(モラル)を説くとか、そういうのがないんですよね。
モラルエコノミーを支えてきた精神を批判しつつオルタナティヴが無い。
これは非常に無責任なことではないか。とても危うい方向に誘導しているのではないですか、と問いたいです。
戻って次は大飯原発の差し止め裁判の時に関西電力が欠席していたという話。
また、あこぎに儲けて海外に持ち逃げといった話では「村上ファンドの村上さんはシンガポール」とのこと。
最近の人は「金払ったら何してもいいと思っている」とかつて高級ホステスだったという室井佑月さん。
常識をすっ飛ばして、決まりがこうだから、これでおしまい、ということになっているんだとおもうんですよね。
これもお金と契約以外の行動指針が無いからであるといえます。
そんなの親や社会から常識として学ぶだろ、と思われている節がありますけど、社会で重い責任を担うような人でさえ、ほとんどできていない。
なぜかというと、そういうかつて社会にあった普通と思われる感覚も、実は儒教や仏教などを社会が精神的な柱にしていた時代に確立したものであって、それが衰退しつつもわずかに残っている状況を、上の世代の人たちは目にしていたに過ぎないんだと思うんですよね。
今やそういうものも無くなっているので、リバイバルするべきところはリバイバルして、再び東洋の理念に立ち返るべきだと私は思っているのですが、いかがでしょうか。
次は金子さんの「拝金主義は滅びる」という話ですけど、本当なのかな、とは思いますね。
「お金持ちも金におぼれない哲学を持っている人が生き残っている」とのこと。
その哲学を持っている例として、投資家のウォーレン・バフェット氏の家が質素なのを例に出していましたけど、これは金子さんが批判するところの、いわゆる「清貧の思想」ではないですかね?
「先生のライバルぶいぶいいせてんじゃん」と疑問に思った室井さん。言わずもがな竹中平蔵のことです。
やっぱり公平に観ていくと、悪いことをやっていても必ずしも生きている間に、何か悪いことがあるわけでは無い。お金におぼれない哲学を持っていなくても普通にお金をもって死んだあこぎな人間はたくさんいます。
因果律を露骨ならしむることなかれ、は宮沢賢治の言葉ですけど、この言葉の背景には、良いことをしたから良いことがある、悪いことをしたから悪いことがある、という風には世の中必ずしもできていない、という人生観があるんだと思うんですよね。そしてそれは仏教の考えでもあります。
情けは人の為ならず、という言葉の解釈の一つにあるんですが、いわば仏教的に過ごすこと自体が「楽」であって、その人の利益であると。
人は本当の意味で健康であると、それなり人間的で優しくなるものなのですよ。https://shakaitsuugan.work/2013/05/22/53538352/
そういう考えが正統であって、それが本当の楽しみなのだ、ということを、ブラックな人たちには伝えたい。
過度に現世での報いがあるんだということを言っていくことは、私は違うと思っています。
続いて室井佑月さんはパソナについて発言し、大臣の名前を言いたそうにしますが、大竹さんは制止。
ラジオの方が週刊誌より発言の縛りがきついということでしょうか。
しかしよく小泉とかこれで国民の前に顔を出せるなと、厚顔ぶりに辟易とします。
ここの部分はポッドキャストでは削除されたんですかね。なかったですよね。
するべきではない自主規制をしているのではないでしょうか。
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