太田記念美術館 「笑う浮世絵-戯画と国芳一門」後期

#その他芸術、アート

行って参りました。

肉筆画では英泉の「ほおづきを持つ美人」が詩情あふれる名作、ですが、きれいすぎて少しあざとさもあるかも?!

「歌川芳員 犬のはなし 大判錦絵 文久元年」は当時、犬に流行り病があったらしく、それを描いたもの。生類憐みの令はこういうのの対策でもあるんですよね。

「歌川国芳 あらためて狸のたハむれ (弓矢/亀の甲羅)弘化2~3年」は的や甲羅を狸の金玉で表現したもの。「河鍋暁斎 狸の戯 どふけ船渡し/角田川花見 大判錦絵 元治元年」は船がそれでできています。

こういうのは誰が始めたんですかね?「平成狸合戦ぽんぽこ」は国芳の創造に負う部分が大きかったのでしょうか。

「四代歌川国政 兎の草履打 大判錦絵 明治6年頃 太田記念美術館蔵」はタイムスクープハンターでもやっていた、明治の兎バブルにかこつけた錦絵。

バブル当時、もしくはその後でも、西洋と比べてバブルの経験が浅かったことを不用意に弾けさせた原因とする論者が多いですが、結局調べもしないで自国の歴史から学ばなかっただけではないかとの感を強く持ちます。当時は観ようとしなかったのでしょうね。

「歌川国芳 道外 獣の雨やとり 天保13年頃 個人蔵」は突然の雨に雨宿りする人たちを描く英一蝶以来の画題ですが、獣にすることによって、職業ごとの個性の違いを一層際立たせています。

英一蝶は本当に浮世絵の歴史の中でものすごく重要なのに、随分影が薄いと思います。やはり明治以来の、戯画を歴史から排除する美術史観が強く影響しているのではないでしょうか。「見返り美人」のほうがそういう視点から見ると整っていますからね。

「歌川国芳 ほうづきつくし 五條のはし 中判錦絵 天保13年頃 個人蔵」はほうずきと海ほうずきを描き分けているとのこと。今調べると海ほうずきというのは卵嚢が当時玩具として売られていたというので、身近なものだったということなのでしょう。

「月岡芳年 百器夜行 大判錦絵二枚続 慶応元年9月」は付喪神の行進。

「歌川国芳 福禄寿 あたまのたハむれ (年始回り/川渡し) 天保13年」シリーズは、頭の長い福禄寿ネタで、お辞儀をしたら相手をノックアウトしてしまったというようなもの。

「歌川国芳 開運出世合体七福神 大判錦絵 弘化2~3年頃」は大黒天以外で大黒天を構成したもの。こういうのはどうも先に全体像を描いてから人などを当てはめていくようです。人を変形させる技術が素晴らしいです。

「歌川豊国 犬の介科 大判錦絵 文化6年」は人に犬の格好をさせたもの。

「歌山広重 往古うハなり打の図 大判錦絵三枚続 天保14~弘化3年頃」は東博でもみかけた、半ば楽しそうなうわなりうちの図。

「歌川国芳 妙名異相胸中五十三面 (江尻から嶋田) 大判錦絵」は北斎漫画などにもある変顔集。なんでも当時人を集めて変顔を興行で披露する集まりが盛んだったらしく、その影響でこういうのが出版されたとのこと。

落語家の中に目かつら芸を得意にする人もいたとのこと。

タイムスクープハンターの「爆笑!ものまね大作戦」でやっていた感じなのでしょうけど、あの番組は普通に芸人さんを連れてきてあるあるネタをやっただけとも言えそうな内容。ネタ紹介のぶっきらぼうな言い方など、普通の営業といった感じ。

いくらなんでも現代のノリでやり過ぎだったでしょう。本当にそうなのでしょうか。ディティールがよくわかっていないとしたら、誤解を招くのでは。

それにしてもタイムスクープハンターは質疑応答をホームページでにおいて公開すれば、面白さ、有意義さが数倍すると思うのですが、やらないんですかね。かつての「堂々日本史」の規模より大きいものが良いと思うんですけど、そういうのがあって欲しいところ。

それと当初のひたすら無表情な人々の状態から、かなりほぐれてきましたけど、それでも笑顔が絶えなかったといわれる、日本の近世などの証言は生かしてほしいところ。

「歌川国芳 荷宝巌壁のむだ書(黄腰壁) 大判錦絵三枚続」は国芳の超有名な作品ですが、やはりほかの同趣向の作品と比べてもこれは出来が良いですね。

「歌川国芳 奪衣婆と翁の首引き」は再び流行神同士の争い。日本橋稲荷の翁と内藤新宿の脱衣婆が首ひきで勝負をしています。背後には応援団がたくさん。

「歌川国芳 流行奪衣装に祈る図 大判錦絵」はその脱衣婆に皆が勝手なお願いをしている図。お願いは一部判じ絵で描かれており、これを解くまで時間がかかるので、一枚の絵を買った方としては、その分、たくさんの時間楽しめたということになるのでしょう。

他にも判じ絵が敷き詰められて物はたくさん出てきましたが、そういった意味は強いように思います。

「山東京伝作 歌川芳虎画 有情雑話」は大家である家守をヤモリのように描く駄洒落系。

「葛飾北斎 喜撰法師 大判錦絵」と珍しく北斎の作品がありましたが、あんまりないんですよね。

北斎は狂歌をたくさん残しているといわれますので、冗談っ気がなかったわけではないと思うんですよね。

たぶん出版文化が爛熟して、国芳・広重のころには、出版しやすくなったんじゃないかと思うんですよね。それで冗談のようなものにも。手が回るようになったのではないでしょうか。

江戸時代は停滞していると昔は言われていましたが、後期になるにつれて圧倒的に豊かになっていくので、そういう資力の余裕も出てきたのでしょう。

カタログには戯画は昔は専門家にもほとんど知られていなかったとい状況が記されていて、「六大浮世絵師」の風景画であるとか役者絵であるとかいったものばかりだったとのこと。「六大浮世絵師」という言葉は古すぎて、現代ではナンセンスと言えるくらいのものになっているといえるでしょう。

さらに浮世絵全体も「婦女子のなぐさみもの」だと思われていたらしく、ひどい扱いです。

ずっと前から思っていたのですけど、こういうことは現代でもあると思うんですよね。さらに諸分野に渡って。

歌舞伎や能もすっかり女性が観るものになっているようなところがありますが、明治以来、和の諸文化は女性に割り振られた劣等の文化、という考えが潜んでいるように思われてなりません。それで男性には、ギリシャ悲劇がとかシェイクスピア劇がなんたら、とか、洋風の教養が割り振られたんじゃないかと思うんですよね。

歴史的には、ちょうど散髪脱刀令が実は男性だけが対象で、女性は日本髪のまま残されたのと対応しています。

こういう考えを私は変えたい、変えるべきだと思います。和の諸文化は、もっとも向上心の強い人たちが鑑賞するべきものなのです。

また、女性で現代の和の文化に精通している人たちの中でも、そういう中で割り振られた二次的なものだと思っているような人が見られるのも歯がゆい。あなたたちが浸っている世界は極めて有意義で、優れた伝統の賜物であり、文化力という意味で極めて実用的なものである、と伝えたい。また、そのような意識で正面から鑑賞してもらえたら、演者・作家との間で、まわりまわって文化としてさらに高雅なものになっていくのではないかと思っています。

今回の展覧会はほとんど個人蔵だったのも特徴。あの戯画はだれだれが持っている、とかたくさん把握しているんですかね?それにしても折衝も大変でしょうし、そういう意味でも大規模な展覧会だったと思います。ありがとうございました。

皆様、おやすみなさい。

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