戸栗美術館 古伊万里金襴手展―元禄のきらめき―前期 その3

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5月16日のテレ朝の午後6時15分ごろのニュースでは子宮頸癌ワクチンの副作用についてやっていましたが、もっとしっかり副作用について調べるべきではないか、ぐらいの話で、厚生労働省と製薬会社の関係があるはずなんですけど、やりません。結局こういう所に触れないのは、原発事故と同じスポンサーへのおもねりではないか。そしてそれは放送法で禁止されているのです。

5月16日の報ステでは石炭火力の解説をやっていましたが、玉川さんのそもそも総研でやっていたCO2埋設の話は無し。以前から結構言われていたものではあるんですが、このアイディアは玉川さんの以外ではまったく見かけないんですよね。
そこまで絶無ではないですけど、以前にTBSの報道特集でやっていた可動式堤防も他では見かけないもので、いったいどうなっているのでしょうか。論点を単純化するために枝葉として切られている要素なんですかね?
今回の森林バイオマス発電特集も同じ経過を辿るのでしょうか。

また番組中、ドイツは電気料金を下げるために石炭火力を活用している、とナレーションが流れましたが、大手メディアの論調を受けている人は脱原発の反動を相殺しているのだろうと勝手に頭の中で繋げると思いますが、原発そのものが高いものである、という認識が重要です。

5月16日の午後11時20分ごろのTBSのニュース23ではちらっと付けたら岸井論説委員が、この問題には日本人の国民性が関わっている、無常感があって自然には勝てないと思っている、とまた適当な国民性解説をやっていましたが、これは間違っているといえます。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52867397.html
比較対象も恐らくあやふやなステレオタイプの欧米しか頭にないのでしょう。主に近代以降の。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52958592.html

「広まりつつある「威力」の拡大解釈 行政に抗議もできない社会に(9)」(http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/diamond-20130516-35976/1.htm)という記事を発見しましたが、国が市民運動をさせなくしようとしているのであって、物凄いノモス化であり、治安維持法化といっていいと思います。原発と同じで警察が、利権まみれの広域処理を進めたい政府の思惑と一体化しています。これはあってはならないことです。
大手メディアの報道ではこのような問題をまったくみません。他の大多数のニュースよりも優先的に掘り下げられて報道されるべき事柄です。

3月25日の朝日新聞の立野純二記者の記事では「「交渉前に関税を一方的に全廃する約束はいらない」。当たり前の話だがそれを共同声明に盛った政治的効果はてきめんだった。首相は凱旋帰国して支持率を高め、米国は日本を交渉に引き込むことに成功した。」とありますが、このような誤解を招く報道を繰り返したのはテレビを始めとする大手メディアです。これでは世間が勝手にそのように認識したかのようで、事実と違います。本来ならそのようなことを指摘しなければならないのに、大手メディアは自らの報道や他社の報道を批判しません。
これはクロスオーナーシップの影響であり、記者クラブという既得権益を守る団体の中で争わないからであり、電波利権を共に政府から享受する仲間であるからです。

3月28日の朝日新聞の論壇時評では、小熊英二さんのアメリカでは証言者は聖書にかけて嘘を付かないという宣誓をする、という言葉が引かれていますが、これは本当に日本でもやった方が良いと思います。白川静さんも、国連などでやった方が良いと書かれていましたけど(文字講話Ⅳ 77ページ)、日本でやるならやはり宣誓対象は「お天道様」でしょう。聖書より普遍性が高くて多くの人の納得を得やすいものであって、正直な政治文化や司法文化を築くための非常に大きな力になると思います。

さっきも、アップルのクックCEOが神にかけて証言が真実であることを誓っていましたが、これは日本もやらなければならないと思います。

「教育格差、6割が「容認」 朝日新聞・ベネッセ共同調査」(http://www.asahi.com/national/update/0320/TKY201303200395.html)といったニュースは保守化する中で家柄主義が復活しかかっていることの表れでしょう。
「おかあさんといっしょ」でも毎回登場するやいなや自分の高貴な家柄を謳い上げる「めーこぶ」が登場しますが、こういうのも良くないと思います。
やはりネオ階級社会化という方向に行かないように、細心の注意を払う必要があります。

この前引用しましたが(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52764075.html)(「織豊政権と江戸幕府」 日本の歴史15 (講談社学術文庫) 池上 裕子 (著)  あとがき)最近は権力について積極的な意義が見出されているらしく、戦国時代のようにならないために秩序を保つために必要なものであった、というような見方を最近はされているようなんですよね。

江戸時代は身分社会でしたが、それにも同じようなことがいえるでしょう。たとえば侍の間で細々と序列をつけるのは、そういう騒乱防止の意味が強かったのではないかと思っています。

ただ、もう近代になると、中央政府が権力を持って統制しなくても、地方から騒乱が起きるということはまずありえないといえるでしょう。それは中央政府が持っている戦力を容易に超えられないからで、中央政府が持っている軍事力が圧倒的である、というのが身分社会である必要性から解放していると思います。あんまりそういう事を言っている人を知らないんですけど、近代兵器というのは近代の民主主義を支えている非常に大きな要素だと思います。

日本はそもそも西洋のような、変な既得権確保の貴族社会というわけでもなかったと思います。そうであれば身分的な社会からはすっぱり手を引くべき、引けるはずで、実際戦後の一億総中流の時代にはそのような日本の良さが出ていた面があったと思います。もしくは明治維新直後にもそのような部分があるでしょう。

明治維新というのは西洋の近代を取り込むということで、それを真似してきたわけですが、それが進んで、こういう趣味の悪い貴族社会の部分まで真似しようとしているのではないかと感じるのです。

3月26日の嘉田由紀子さんのインタヴューでは「日本の政治がお任せ民主主義を脱し、参加型民主主義が根付いて」と冒頭にありますけど、例えば安保運動の頃は今よりみんな政治に参加していたと言えると思うのですけど、今より参加型民主主義が根付いていたから、といえるのかどうか。

民主主義というと、西洋の特別な思想を日本に根付かせる、という発想で語る論者しかみたことが無いくらいですけど、そうではなくて、身近に課題があって、活力があれば誰でも勝手に動き出すと思うんですよね。

江戸時代の直訴や一揆の激しさ・整然とした振る舞いや、戦前の自由民権運動や米騒動などの激しさをみるとそう感じます。また、上のような目で見た時に本場のはずの欧米でも酷い所。内容は隨分とあります。

なので、「参加型民主主義」を達成するには、子供の生命力を上手く育てていくような教育や、参加した際のマイナスの反動、障壁を取り除く制度作りが急所といえるでしょう。

引き算の民主主義、といいますか、そういう人の活力の発露を邪魔するものを取り払うことで民主主義の成熟を計る、という発想があってしかるべきだと思います。

そういう目で観た時に今の民主主義観は実際に行くべき方向から逆行してしまうような内容を多く含んでいると感じます。

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