6月28日の報ステでは、コメンテーターの三浦さんは脱原発運動の歴史の長いドイツと日本は違い受け皿となる政党が無い、といっていましたが、メルケルも最近まで原発推進であって、事故を受けて転換して受け皿になりました。これはやる気があれば一瞬にして受け皿が出来る事を意味しており、歴史は本質的に関係ないと思います。
地方分権など、民意を吸い上げるシステムを構築するなど、社会の仕組みの根本的な転換を、といっていて、その通りなのですが、そこを待てるほど悠長な問題でもなく、今まさにやる意志がやはり一番の問題だと思います。そしてこれが今までを含めて、日本に一番大切なことだと思うのです。仕組みは通った跡についてくるとさえいえると思います。
ここ何年か知りませんけど、少なくとも60年。女権問題から政策に至るまで、色々な分野で何か問題があるたびに、各界の学者・有識者は、それは欧米の制度を輸入しなかったらだ、といい、制度がいくらか取り入れられると「それは西洋の制度を輸入したけど、エートスを輸入しなかったからだ」と言い続けてきました。しかしそれで果たして、問題は解決してきたでしょうか。よしんば西洋のエートスを輸入できたとしても、それでは精々、ベルルスコーニやサルコジよりやや水準が劣る程度の指導者を迎える位の事にならないでしょうか。そして実際そうなっているのではないでしょうか。
私はそのような事を言っていては、一向に事態は良くならないと思う。問題を解決するのは、民族各々が持つ主体的な創造力以外に無いと思うからです。
もちろん良いところを取り入れるのは悪くありませんが、復興の主体となるべきはあくまで、日本人の主体的な創造力でなのです。これは国を個人に置き換えてみれば、すぐに納得されるのではないでしょうか。
その人の主体性を育むのが正しい教育の姿ではないでしょうか。
○○ちゃんの真似をしなかったからこういうことになったんだ、今度はちゃんと真似しなさい、という教育が優れているでしょうか。
そのことに納得しない限り、失敗は永遠に続くと思います。
それを受けて、古舘さんもドイツは原発大国フランスから電力を買えたので条件が違った、といっていましたが、ドイツの電力輸出の方が、フランスとのやりとりの間で超過しているので、意味が無い所か、ミスリードを誘いかねない情報だと思います。
6月29日のTBSの夕方のニュースでは原発デモをかなり長く本格的に扱っていたのですが、再稼動をしないと電気が止るかのような報道で、ここら辺の「バランス」がやはり限界でしょう。関西電力・政府が再稼動をしたい真意をついていないのは報道している側も知っていると思います。
ニュースの中で、原発再稼動賛成40パーセントと言っていましたけど、ダブルスコアだったのが縮まったんですかね。それとも、アンケートの取り方も気になるところです。
同時刻の他局はあまりみていないのですが、長い時間を割いたのはTBSだけだったみたいですね。
6月28日のNHKの九時代のニュースは終末期医療の崩壊を伝えていてリアルでした。
ヘルパーに全ての負担がかかる仕組みで、病院にいればやれることもできない。小泉改革で高齢者は三ヶ月で病院から追い出すことに決めたので、つめを切る権利すらないヘルパーが持ち出しで最後を看取るほか無いわけです。
昔からたらいまわしはあったんですけど、自民党の橋本の母親は慶応病院にずーっといたそうで、当時問題になりました。
地域が試されているという、大越アナウンサーのコメントが最悪で、国の責任を放棄させ地域に転化するジャーナリストとしてあるまじきコメントです。
国がやらないから地域で支えろというのが新自由主義の思想で、ここに絆を強調するゆえんがあります。(失われた30年―逆転への最後の提言 (NHK出版新書 381) 金子 勝、 神野 直彦109ページ)
さかのぼると明治に江戸期の仁政から「八十八歳以上の老人に支給されてきた養老扶持米なども打ち切られた。(中略)<人民相互の情誼>による扶助が原則とされた。」(文明国をめざして (全集 日本の歴史 13) 牧原 憲夫 120ページ)らしく、ここからの流れを抑えておくことも重要でしょう。
6月29日の報ステでは新幹線に予算がつぎ込まれるという事をやっていましたが、
まったく筋が通っていない事を承知で、増税を財政再建のためだと連呼し続けたテレビ・新聞の罪は果てしなく大きいと思います。
鳥越さんは政権運営能力の欠如といっていましたけど、この言葉は自民党にあったかのような言い方で、あまり意味の無い言葉だと思います。
鳥越さんはデモでも、この日に市民のデモが復活したと言っていましたけど、ウォール街のデモの規模でその範疇に入るなら、今までもあったのに報道しなかっただけだと思います。
どうも鳥越さんは、特に原発事故以降はピントのずれた発言が目立つことが多いように思います。報道姿勢も、いいにくくてもいうべきことが震災以降は沢山あったはずなのに、捨て身のものをまったく感じません。
以前からの事が判りやすくなっただけでもありますが。正直申し上げて、これから活動できる期間が物凄く長いというわけではないと思います。このままでは山路さんの兄貴分といった感じだったね、という感じで終わってしまうと思います。
増税を巡る議論は本当に論外で、マニフェスト違反であるし、特別会計は放置したままです。(6月30日の日テレの朝のニュースではがんばって削ったのだけれども出てこなかった、というストーリーを構築して、鳩山の責任にしていましたけど、これで削ったといえるのは官僚の指導が行き届いているといわれるメディアならではだと思います)
増やしても税収が増える当てはなく、代わりに法人税が下がって一部の輸出企業だけが得をするもよう。
採決では河野太郎も賛成票を投じたようで、良いとかベターだといういうことで一家言ある人でも持ち上げる人が結構いましたけど、やはりここらへんが限界だということでしょう。
さらに論外ですけど、田中真紀子も賛成票も投じたようで、彼女は自民党時代に党の方針と発言が一致しないのを咎められて、内部から改革するんだ、といっていてましたけど、どう考えてもそれで良くなるような政党ではないんですよね。
野田は税と社会保障の一体改革と唱えていて、テレビもそのまま報道するのですが、何が社会保障なのか誰も突っ込みませんし報道されません。
朝日の6月25日の夕刊の一面は「造反阻止「責任果す」」で、最早脳みそが腐っているといって差し支えが無いでしょう。増税はしたときのメリットを解説できる人を見たことが無く、マニフェストにもありません。このような記事は財務省の影響下で書かれているといいますが、その圧力のシステム。または社会構造を明らかにすることがとても重要です。そして、その両輪としてそういうものに抗える人材の育成が急務だと思います。
江戸時代の武士は「御意にても我が心に入らざることは従い奉らず候」(江戸武士の日常生活 柴田 純 (著) 162ページ)といった感じだったらしく、藩政批判をかなりやっていたらしい。天(道理)を意識して動いていたとのこと。
「滅私奉公」というのは公的なものへの滅私であって、主君への滅私ではなく、したがって身命を賭して諫言するようなもののをことなどをいったそうです。
主君への滅私を説く葉隠は極めて異質な存在で、戦前にそれを取り上げることによって、軍国日本の「無責任体制」に都合の良いように歴史を創作したとのこと。こういう滅私は主体性が無く、責任逃れに好都合だった模様。
戦前の残滓ともいうべき思想で戦後に活躍した三島由紀夫が「葉隠入門」を書いているのは、文脈が通っています。
戦前の仏教界では「無我」が滅私奉公の論理にすり替えられましたが、すでに滅私奉公の解釈自体にも歪みがあって、二重の歪みであったことになります。
戦後には日本の思想を批判する多くの評論家が現れましたが、彼らの多くが滅私奉公、無我において、戦前の改竄に沿った解釈を採用していることに注目しなければなりません。そしてその多くは戦前のそれとコインの表裏であったと思います。
こういった過去の歴史を正しく認識しなおして、その長所を取り現代に生かすことで、真の硬骨漢が沢山生まれてくるような社会を築くことができると思うのです。
「「大義ない」造反議員に地元県連が悲鳴」は読売ですが、増税で本当に国庫収入が増えるのかといった基本的なことに加えて、マニフェストを命がけで守るという野田の大義をまず問題にするべきで。
守れなくなる見通しがついたのなら、命は兎も角として、最低限政治的な責任を取るべきだと思います。
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