運良く券を頂いたので、行って参りました。
半泥子といえば最近鑑定団で出ていて、中島誠之助さんが本阿弥光悦と同じように「国宝になるべき運命のものです」と絶賛していたのが印象的で、気を引かれました(笑)あんないい宣伝、無いですよねぇ~。
非常に立派な人だったことがわかったので、この文を書く前にとりあえず、川喜田半泥子を辞書登録しました(笑)
展覧会の最初にあった作品が、流石に素晴らしい作品。
粉引茶碗 銘「雪の曙」は、ほんのりとしたピンクに、風が吹きぬけるような、凛とした気配があります。
狛犬の「阿形」は石版みたいなのを頭の上にしょっている変わった形(焼く時に天井がくっついたのを、そのままにしてあるそうです)。さらに股の下には脚より大きい突起物があって、多分これは股の下のp(以下略
「吽形」に女性的な特徴があったらそうなのかなぁ、と思ったんですが、それらしい特徴は見つかりませんでした。
粉引茶碗 銘「わすれな草」は灰色と青と茶のグラデーションが新鮮で、出来立てほやほやの沼地、といった感じの味がありました。
横のご婦人が、「名前が良いよね」と仰っていたんですが、そのネーミングセンスは実に絶妙です。
芸術作品の名前というのは難しいもので、内容の無い作品(情緒を否定したかのような前衛的な作品)にロマンティックな名前を付ける事を伊福部昭さんは批判していましたけど、最近の普通の現代曲にはそういうものが多いですし、武満にしても名前負けをしている作品が多すぎると思います(笑)
そういう中で半泥子の作品をみると、作品と題名が拮抗していますし、しかもその命名の後ろにある物が楽しさのみ、ということがダイレクトに伝わってくるので、こっちも楽しい気持ちだけで観る事が出来ます。
伊羅保茶碗 銘「ほし柿」はガビガビな茶碗なんですが、名前を聞くと納得させられます(笑)
それにしても、一つ一つに対する特別な愛情を感じさせる命名です。
元々中国に比べて作家性の強い日本の焼きものですが、本当の趣味で作っている人というのは中々いなかったはずで、その極北にある感じがしました。
魯山人は最初に食べ物があって、そのヴァリエーションの分だけ種類がある感じですが、そういう眼で観ると半泥子の器は変化が少ないような気がしました。逆に半泥子は器の美しさを中心に、グラデーションのように種類があるので、そういう眼で観ると魯山人の器は、せいぜい形が違うだけで、種類が少ないように見えるかも知れません(笑)
茶杓では 銘「うねうね」というのが、蔦のようにうねった作品で、思わず欲しいなと思いました(笑)
最後に焼き物の展覧会全般に言いたいのですが、陶片ですとか、触って作品の感触を想像出来る様な物を、なるたけ置いた方が面白いと思います。
去年の紙を触れる展覧会ですとか、伊万里の展覧会が面白かったものですから(笑)
半泥子という名前は「泥多仏大、水長船高」という禅語から来ているそうで、(プラスにできれば)困難や煩悩が多いほど良いという思想は、やっぱり独特だなぁ、と思います(笑)
大切なのは「品と力」だそうで、「作意気の潜在意識で作り上げたものばかり」なのだそうです。「何れも見所切所を誤らずして下手に切り、下手に削るのが上の上也」ということで、音楽ではフルトヴェングラー等にいわれる、最高のアマチュアのカテゴリーに入る人だというのが分かります。
洋画も上手くて「ジャワの古都」はジャワの匂い立つような空気感(多分)が、良く表現されていたと思います。
言葉の抜書きが色々貼ってあったので、ネットの海に投げ込んでおきたいという気持ちもあって、貼っておきます。
焼き物は
一、味のある土
一、無心で楽しく作ったもの
一、自然の窯の作用
此三ッがピッタリと出会って初めていいものが出来るのである。
よく「苦心の作」というが苦心は平素の鍛錬に必要なことであって、作るにのぞみ焼くに及んでは、ただモウ楽しみ楽しんで自在無礙の心境でやっつけるに限ると思う。
書画もそうだが、焼き物でも茶人や骨董屋のいう「約束」に囚われないがイイ。
全体「約束」というものはイイものでも必要なものでも何んでもない。
「約束」は作る人の癖と作る時の自然の現われに過ぎない。
つまり「出来たもの」であって「でかしたもの」ではない。
新年に良いものをどんと観て貰いたい、という主催者の気持ちを感じるような展覧会でした。新年明けましておめでとうございます。(遅い)
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