行って参りました。年に一回の信者の祭典・・・だったはずなんですが、年々一般の方の比率が増えているように思います。
山下公園で昼食をとって、会場へ。中川さんらしき人がいらっしゃったのでご挨拶。仙台から来た(違う)労をねぎらって頂きました。宇野先生に少し似た、柔和な方です。
所でこの前、松尾芭蕉の展覧会があったのですが、芭蕉と聞いて思い出したのは宇野先生です・・・・・そこの人、ちゃんとこっちを向いてください。
宇野先生は色々、著名人のファンが多い事が知られていますが、一方で、音楽関係者、学生たちの中にはそれ程ファンが多く無い様な気がします。
このようなギャップは何故生じるのでしょうか?
宇野先生は良く演奏に「(作品の)本質を捉えきっている」と賛辞を呈しますが、人はそもそもどのような方法で本質を捉えるのでしょうか。井筒俊彦さんの「意識と本質」という本によれば松尾芭蕉は「風雅に
こういうことは芭蕉だけがしているのか、といえば、そうではなく、朱子学の影響を受けた若冲なんかもしていたでしょうし、本を読む人は本にやっていたりもすると思います。
例えば白川静さんは、ずっと本を読んでいるとその本を書いた人の「學問をせざるを得ないというような、その人自身にとっての内部衝迫的な、内から突き出てくるというようなもの」を感じるようになったそうですが、これは読書で「本情」を捉えたものだといって良いと思います。
他にもこういう事は、一流野球選手ならボール等に対してしているでしょうし、それでボールの縫い目が見える、というような事になったりする。
宇野先生も恐らく、例えば結核の療養をしている時に天井を見つめながら理想の演奏を思い描いていらっしゃったといいますが、そういう時に曲の「本情」を見つめていらっしゃったんだと思うんです。だから同じく「本情」を見つめようとする、各界著名人がファンになったり興味を持ったりしたんだと思うんです。
一方で普通の音楽科の学生や演奏家の人たちは、そういう事をしなかったり十分にできていないから、何か良く分からない言葉で批評している、と思って余りファンになったりしない、ということがあるんだと思うんです。宇野先生を取り巻くこのファンの分布は、こういうようなギャップが重層的に積み重なって形成されている、といっていいと思います。
こういう事をわざわざ言うのは、音楽をなさっている方の中に、宇野先生の批評を読まれる方がそれほど多く無さそうなのが少し勿体無いな、と思うからです。宇野先生の批評されたものは一人一人の感性に合わせたものではないですし、全ての推薦盤が100パーセント高い普遍的な価値を持っている、というわけでもありません。それでも宇野先生は極めて高い感性と文章力を持った評論家であって、その感性と角力をとりつつ、音楽の豊穣な遺産に遊ぶことによって、音楽家の人はもちろん普通の生活人も、とても豊かな収穫を得られるだろうと、あえて力強く断言したいと思うのです。
導入は小学唱歌から。「あめふり」は今回も至純で天上的。中山晋平の個性とフィオレッティ&マエストロ・宇野のコンビは、かなり素晴らしい相乗効果を生むのかもしれません。
「別れのブルース」はメロディの最後に湧き上がる弱音が、命のかかった感じ。
「めんこい仔馬」は堂々と、時にミーア・キャットの様に動く、宇野先生の曲想の描き分けが流石です。
最近のレコ芸を読んでも体調は万万全というわけでは無さそうですが、だからこそパッションで体が動いている様な感じもあったような気もします。宇野先生の指揮を観つつフィオレッティの音楽を聴いていると、そうですよね、そうじゃないと面白くないですよねぇ、とうなずかされる事が多いです(笑)
「南の花嫁さん」は向かって左から二番目の方の朗々とした独唱が見事。時に表情が付き過ぎそうになって、フイオレッティの音色から外れるかな、と思うとまた清澄な調子に戻る、という規範の際まで飛んだ歌唱に緊張感がありました(笑)
「戦時歌謡5曲メドレー」が颯爽と過ぎ、「兵隊さんよありがとう」はやはり賛美歌の様。
「月月火水木金金」辺りは流石に腕の振るい様がなさそうな曲だな、と思ったのですが、盛り上げ方の指示とか結構細かく、芸の効いた曲になっていました(笑)
「索敵行」は独唱の杉林さんの、透き通った情熱的な声が素晴らしかったです。
「東京の花売り娘」では一度舞台袖に引っ込んだ宇野先生が、薔薇を指揮棒の様に持って登場。演奏をして笑いを十分にとった後、向かって右端の方に手渡され、たてしな日記の名場面もかくばかりであったかと感涙。
今回のプログラムにも、「お陰で」を「お客で」と書いてしまう誤植がありしたけど、こういう笑いを入れるにはどんぴしゃの場所で、評論もそうですけど、お客さんに気配りが行き届いている人だなぁ、と感心しました。まぁ、やりたい事と一致しているだけなのでしょうけど(笑)
「津軽のふるさと」はリンゴが揺り籠に包まれるような、やさしい旋律が個性的な味。
「長崎の鐘」は体力が大丈夫かな、と思うくらいの気合の入り方で、凪いだ水面が時にざわつくような所から、終曲のやわらかで、品良く、厳粛なディミヌエンドまで、凄く密度が濃い名演でした。
アンコールは「ドンブラコ」から。簡素ですが、楽譜から掘り起こすべき表情は豊かな曲だな、と思いました。喜劇調な所もあって、フィオレッティにぴったりの曲といえるでしょう。
ドンブラコでは終われない、ということで「マロニエの木陰」を丁寧に演奏して終了。
たのしかったですね、よかったですね、と皆さん口々に言っていて、音楽を聴きたいという気持ち、演奏したいという気持ちがとても強いコンサートだなと今回も感じました。
そんな場に天才音楽家が感性を投げ込んだ、滅多に無い良いコンサートだったと思います。今年もありがとうございました。
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