太田記念美術館 江戸時代を旅してみよう 後期

#音楽レビュー

行って参りました。
この日は珍しく開館の直前に到着すると、そこには士気の高い浮世絵ファンの方々が。一人前の女性がチケットを買う時に、受付の方に作品名が書かれた紙を貰っていて、通って二年目にして言えば出品リストが貰える事が分かりました。いや~、通の方は違いますねぇ(^_^;)同好の士がいらっしゃったら、是非ご参考に。

今回の肉筆画で目立ったのは歌川派(詳細不明)の「両国の花火」。女性が花火師の打ち上げのすぐ横に船を浮かべて見物している図で、面白い角度です。ぽろりもついているんですが、形が良いんですよね。崩れやすい時代だったからきっと、こう見えて十代なのではないk……。

昇亭北寿の「東都芝愛宕山遠望品川海」はぶきっちょな絵で、ああ、広重・国芳は段違いに凄いんだなと納得させてくれます・・・と思ったんですけど、実にこれが芸風らしく「江ノ島七里ヶ浜」はひたすらごつごつした岩肌が特徴的。鉄パイプで組み立てた様な潤いの無い絵で、良いとは思わないんですけど、とりあえずは視野に。
同じく「甲斐国猿橋ノ真写之図」は橋げたが無いという変わった橋。山と山との間にかかっているようで、中々凄い風景です。前期でも半分石半分木の変わった橋がありましたけど、ある大工の人が言うには、昔の民家の修理をすると、必ず何か発見があるらしく、それは橋も同様だったのかもしれません。

奥村政信の「浮世花見車」はぷっくりした造形が、何か面白かったです(笑)この人の絵には室町時代の香りがあるような気がします。
鈴木春信の「鶏と男女」は女性の神秘性すらある美しさが、一頭地を抜いています。
磯田湖龍斎の「本町湊八景 大坂秋の月」は花魁?のボリュームがあって捻った格好が、相変わらずの強い個性。
喜多川歌麿の「忠臣蔵 八段目」は何が忠臣蔵なんだか分からない美人画で(見立て絵だそうです)、左下の女性のあどけなさが秀逸でした(^^;)

勝川春好は写楽に影響を与えた絵師らしく「四代目岩井半四郎の戸無瀬」は確かに表情が似ていますし、構え方もどこと無く面影?があります。役者大首絵を創始したのもこの人だそうで、大物がいるものです。

所で私たちは浮世絵風景画を、どのように鑑賞すれば良いのでしょうか。
浮世絵が好きだった、ということで有名なのは、なんといっても印象派の画家達です。そもそも日本の思想の影響を受けているそうですが、ゴッホの文章があったので、写させていただきます。

日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過しているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところがこの草の芽が彼に、あらゆる植物を、次には季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだが、すべてを描きつくすには人生は余りに短い。いいかね、彼ら自らが花のように自然の中に生きていく、こんな素朴な日本人達が我々に教えるものこそ、真の宗教とも言えるのではないだろうか。日本の芸術を研究すれば誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。我々は因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ。

・・・とのことで、ここから分かるゴッホの考えは①浮世絵師たちは自然を研究して写す能力が非凡で②それは非常に価値があることである。③そして②の見解は宗教的な視点からでもあるらしい。といったことです。

また、井筒俊彦さんがイスラームの学者に「何のための世界旅行ですか?」と聞いたら「神の不思議な創造の業を見るためだ。それが本当の意味でのイスラーム的信仰の体験知というものだ。本なんか読むのは第二次的で、まず、生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造し給うたかを想像する」と言われたそうです。(「二十世紀末の闇と光り」)

日本の伝統の中で言えば「じかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「もののあはれ」を知ること」(意識と本質34ページ)だそうですし、明恵は「自然に接し、自然の心を知ることができたときは、今更別に経典を読む必要も無い」(明恵 夢を生きる201ページ)と考えていたそうです。
ちなみに私は飛鳥時代の自然に対する感受性というのは、こういうもののとても進んだものだと考えています。

以前に「100年インタビュー」の宮崎駿さんの回をみたんですが、これがどうも、インターネットで調べると、渡邊あゆみアナウンサーのインタビューが評判が悪いんですね。私も話がかみ合っていないように感じました。
どのように噛み合っていないかといいますと、宮崎駿さんがいかに良く見て表現するか、ということを語るんですが、渡邊アナウンサーはそれを受けて、その更に奥。映画に対する哲学のようなものを聞き出そうとするんですね。すると宮崎駿さんはそれを流して、またいかに良く見て表現するか、ということを語り始める、ということの繰り返しなんです。
何でこういうことになるかといえば、それは多分、渡邊アナウンサーがただものをよく見て表現する、という行為をそこまで尊いことだとは思っていないからではないかと思うんです。だからそれ以上は無いのか、と質問してしまう。一方で宮崎駿さんは淡々とものを見て表現して行く。恐らく直感的にそれがとても価値のあることだと思っている。このギャップが超えられなかったインタビューだったと感じました。

もちろん映画に対する哲学とか、そういう色々な事も大切ですし、個人的に興味があります。しかし、現代の思想のバランスを観てみる時、もう少し、物をただ洞察するということの大切さ、その先に広がる精神的に深い世界を思い出すべきではないかと思います。
そして、そういうことをしている人を尊敬する、自らも観察する、という事が必要なのではないかと思います。
浮世絵風景画はその最良のお手本、導き手になるのではないでしょうか。

太田美術館の近くに明治神宮があるのは、良い巡り合わせです(笑)

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