ただ券を頂いたので見てきました。しかしよりによって今年二番目の暑さの日とは(笑)
最初に置いてあったのは乾山の意匠を借りてきた大鉢ですけど、魯山人らしい大らかな美しさを秘めているという点では、今回の展覧会を総括するような内容を端的に持っていて、これを冒頭に置いた人の見識は大した物だと思います。掴みはOKといえます。色んな展覧会を行って思うんですが、企画をされる方は本当に色々総合的に知っている人なんだろうなぁ、と思わされる事が多々です。
まず次に置いてあった年譜を玩読。笑わせて頂きました(笑)目立つのは結婚と離婚です。これが多いっていう事からどういう人かという事を推測すると、気分屋さんなんじゃないかと思うんですよね。あんまり長期的な展望を持って結婚しているわけではないのだと思います。魯山人の厳つい風貌は晩年のブラームスを思わせますが、人間のタイプとしては注意深いブラームスより良く爆発するシューベルト辺りの方が似ているのではないかと思いました。共に多作なのもその時の気分をそのまま作品に封印することが出来るからなのではないでしょうか。
やっぱり普通の皿とはちょっと違いますよね。良く言えばスケールが大きくやや悪く言えば恐竜的な皿といえるかと思います。ただこの皿達が星岡料亭で非日常を演出した事は想像に難くなく、芸術作品の出来は作品そのものではなくシチュエーションによっても規定される物だな、と想像を逞しくしていました(笑)廻覧しながら年を召された女性達が「男の人は大作ばかり作るのよね」とか「これ載せられないわよね」とか仰っていましたが、使うシュチュエーションが日常ではないという事で魯山人の弁護になるかと思います。
焼き物の知識はほぼ皆無なので、全て直感的な評価ですけど、一番の良かったのはやっぱり志野ですね。あの辰砂の赤は魯山人の激しい気風を一番良く写し取っていたと思います。次が備前です。備前っていうのは表現が全て内側に凝縮されるような所が有ると思うんですけど、その表現が極めて豊かでアイディアに富んでいて、備前の持つ滋味と良く響き合っていたと思います。
織部の緑の釉薬を掛けた物は柄が大きすぎて、いくらなんでも皿として上手くいくのかなぁ、とも思いました。皿単体では一寸分からない感じでは有ります。
見本を見て思ったんですけど、自然物っていうのは凄く精巧な所が有るんですね。小皿の上に胡瓜とかみょうがとかが乗っていましたけど、本物っていうのは凄く上手く模写された工芸品と捉える事も出来ると感じました。そこに魯山人の縄文時代を近代ナイズした感じの皿と併せると、精巧と奔放が上手く合わさって非常に見事な物になるんだと思うんです。やっぱり皿だけでは見られないし、盛られていても考えられた物で無いと評価出来ないなぁ、と思いました。そういう面から見ると、今回幾つか乗っていた和菓子であるとか胡瓜であるとかは本当にジャストな物が乗っていたのではないかと思い、展覧会を仕切られた方のセンスにも敬服致しました。織部の緑の巨大皿はとても怪奇な佇まいで、何を載せた物か殆ど見当が付かないのですが、その方だったら見事に調和する物を載せる事が出来るのかもしれません。
絵については北斎の肉筆画とかを見てきて結構見る目が付いてきたと思うんですけど(見た事によって同時に得る偏見には気を付けなくてはいけませんが)魯山人の絵は日本を代表する浮世絵師達の絵と比べると、一筆でその物体の質感を表現する所はどうも劣っている様に思います。ただ魯山人の絵というのは画題そのものがぶっきらぼうなんですよね。そしてその中でぶっきらぼうな線が躍動している訳で、全体としては纏った芸術として良い物になっていたと思いました。書家の絵らしいとも言えますし、魯山人らしいとも言えると思います。
書については良寛を理想としていたと有りまして、模写も有るんですけど、やっぱり素朴でざっくりとした外面を良寛から借りているという面も強くて、力の有る終筆等には魯山人の書を感じました。書は学ぶ物ではなく真似る物だと極めて若い段階で気が付いていた事にも敬服しました。正式な教育課程から離れた所より有為な人材が出る、というのは色々な例を持って現代の私達の知る所ですが、それらの知識を持ち難いと思われる時代でどうしてそういう考えに至ったのか、ということにも興味が有ります。
腹が減ったので出てきてしまったのですけど、もう少し見ていても良かったかもしれません(笑)様々な物にチャレンジして、自分の感性を叩きつけて、それを堂々と公開する。という三拍子が印象的で、魯山人の芸術は人格の賜物で有る、と強く思いました。思ったより大規模で、座敷が有ったり焼き物の工程の解説が有ったり、著作の書き抜きが絶妙に配置されていたり、工夫の効いた想像以上に良い展覧会で有り難い事この上有りません。
・・・・あ゛、天女像見てくるの忘れた(^_^:)
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