富士フイルムフォトサロン 企画写真展 伊知地国夫「 写真で楽しむ 科学のふしぎ 」 その3

#その他芸術、アート

9月11日のニュース9では太陽光発電が接続されない問題を扱っていましたが、発電が不安定なため、という北海道電力の言い分をそのまま流し、発送電分離という言葉は最後まで使われず。あたりまえの重要なタームだけど、NHKは使わないだろうなー、と思って最後まで注視していたのですが、やはり使われず。

続いては群馬の農地を自治体主導でメガソーラーにしようとして、農地転用の特区を申請したら農林水産省に断られた話。農家の高齢化で雑草ぼうぼうの地で、これを農地として維持せよというのなら、そのお金は農林水産省の職員のポケットマネーでだすべきだと思います。まさに遊びですから。

ここら辺の流れは玉川総研で同じものを取り上げたものがあったので、手元にあったりネットで映像が見つけられれば、ニュアンスや使っている言葉などを比べてみてみるのも面白いかもしれません。

次に国の戦略を聞くために大越健介キャスターが元岩手県知事であり現在、野村総合研究所顧問も務めている増田寛也氏に話を聞きましたが、この二人はそっくりですね。兄弟で通るでしょう。事故直後もニュース9に招かれていましたよね。

その増田寛也氏が開口一番に言うには「中長期的には原子力発電が必要」とのことで、理由の説明はなし。

原発は非常にお金がかかって発電効率の悪いものです。なぜ必要なのか。
番組中で「原発は安い」という言葉も出てこなかったと思うのですが、そうすると明らかに間違いなので「必要」だけで切ってしまうのでしょう。

NHKなので当然で言うまでもないという惨状になってしまいますが、原発は高いという事実への言及はなし。

特に長期的に原子力が必要というのは、原子力ムラを含めても、かなり変わった意見なのではないか。ムラ内でも過渡的なエネルギーであるという認識はかなり共有されている印象。

この増田知事は現役の時も、石原慎太郎などと並んで評価する声が週刊誌などでありましたが(いわずもがな)、私から観ると当時からおかしかったです。たとえば有名な、鎌田實さんの言葉から取った「がんばらない宣言」(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51556987.html)にしても、県内のコンセンサスを形成しないで一方的に通達するので、反発がかなり大きかったんですよね。

確かに必要な方向性かもしれませんが、話し合いの上で合意しないで軋轢を生むのであれば逆効果ですし、「がんばらない」と一言で言ってもその内容にはいろいろな方向へ行く含みがあるので、その部分について話し合わないと、やはり意味がなく、間違えた方向に行ってしまう可能性も高いでしょう。震災もありましたが、現にこの言葉が岩手で県民にとって血肉になっているかというと、なっていないといえる。勝手に通達して押し付けて県内を掻き回しただけの結果になったといえるでしょう。

そしてそれは、本来「がんばらない」という言葉で排除を意図する、高度経済成長期の「歪な頑張り」そのものではないか。

「がんばらない」と口では言っていますが、そういう体質的に染み込んだ硬く権柄で軍部にも通じる大鑑巨砲的な考えが、このような原発に対する認識を生んでいるのではないでしょうか。

福島第二原発からの中継に戻って、まとめで大越健介キャスターは、福島の人たちはトラブルが起きるたびに故郷に帰るという希望が砕かれている、といっていましたが、国や東電の拝金主義的な帰還路線に乗ったまま、避難を支援するべきだという言及は当然のごとくなし。ほとんど何度も観た演目のように、報道の展開を観なくても当てられる水準です。毎日同じ三文芝居を繰り返して恥ずかしくならないのでしょうか。

福島では船を新調して意欲を燃やしている漁師がいる、とも付けたしましたが、太平洋のみならず世界の海がダメになるのではないか、と世界が注視している中で、なんと別世界的な報道でしょうか。

世界中が汚染水問題をトップニュースで報じているときに、NHKは汚染水問題を全く報じなかったといわれています。

こういった欺瞞に満ちた報道を繰り返すたびに、日本が痛んでいくのだ、という痛みを制作班や、NHKという組織には、自らの痛みとして感じて欲しいと思います。

「トルコ:日本人2女子学生刺され死傷…カッパドキア」(http://mainichi.jp/select/news/20130910k0000e040166000c.html)は通常の観光ルートからちょっと外れたところで起こったとのこと。よく陣内秀信教授の本ですとか、それ以外でも、通常の観光ルートから少しずれるだけで素晴らしいところがあるのにもったいない、とパックで決められた所を回るような旅行者を揶揄する人がいますけど、ちょっとずれるとやっぱりそれだけ危ないんですよね。なかなか容易に言い難いことだと思います。

「日本のメディアも、なぜか批判的精神をすっかり骨抜きにされているみたいで」(http://www.kiyoshikurokawa.com/jp/2013/09/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E3%81%ABnature%E3%82%82%E6%87%B8%E5%BF%B5%E3%82%92%E8%A1%A8%E6%98%8E%E4%BD%95%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B.html
と国会事故調のトップの黒川清さんのオフィシャルブログに書かれていましたが、「なぜか」ではなく、クロスオーナーシップに記者クラブ、電通の海外では非合法であるともいわれる大きな影響力。国内法に照らしても違法なことが行われているとも言われます。
http://blogos.com/article/49186/
http://blogos.com/article/49699/)これも海外にあって日本にはないといわれている、縛りのない広告の比率の上限など、よく議論されていることで、メディアに国会事故調が勧告すべきことはいくらでもありました。

他にも電波オークションによって既得権益的な在り方を排除し、清新な風が入る可能性や、チャンネル数を増やしたりBSを地上波と違う事業者に割り振って競争を促すなど、メディアを政府や事業者など(原子力ムラ)の虜にさせない有効な手はあります。

同じく責任者の野村修也さんは良くテレビで見かけますが、そういったしがらみの中で、(丸山眞男・司馬遼太郎式に)国会事故調は責任を文化に擦り付けるばかりでメディアの構造的な欠陥を指摘せず、批判的精神をすっかり骨抜きにされてしまったのではないでしょうか。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52867371.html

ヒューマンエラーも指摘されなった、と月刊文芸春秋の2013年9月特別号の柳田邦男さんの「吉田所長の死闘が訴えるもの」という文章にありましたが、それこそが無責任体制の核心ではないか。

そこにリンクが張られている内田樹さんの翻訳(http://blog.tatsuru.com/2013/09/06_1112.php
があったので、内田さんのツイッターも読んでみたのですが、そこで(https://twitter.com/levinassien/status/377251051931320321)という文章も見かけましたけど、ある問題について論理が正しいか否かと、それ以外の問題の通算打率には関係がありません。構造主義をはき違えているのではないですか。

またどうしても通算打率が気になるのであれば、匿名でもその部分について実名の人間より情報発信をしている人はいるでしょうから、そういったものを参考にしたらよいのではないですか。あと若手とかはこれだとどう扱うんでしょうね。

それ以外の文章も、常識的な判断を何をもって常識的な判断と位置付けるのか、不明瞭です。

何をもって打率とするか難しいですし、過去の判断というのは(積極的な意味での)常識というものを判断する際の一要素、の範疇を出ないものだと思います。もっと直観的なものも含めて多角的な判定が望ましいと思います。

文章だけをみても、ちょっとした言葉遣いなどから、その人の見識が計れたりするものです。

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