行って参りました。
夕食は御徒町の蕎麦屋で、と思ったのですが、閉まっていたので町をふらふらと。すると丼物の露店を発見。マグロとウニが沢山乗って、なんと800円でした。御徒町はなんとも素晴らしい町です。
会場は色々な人が来ている感じの、楽しい賑わい。何か知っている気配を感じたような・・・?
1.二十五絃箏曲 『胡哦』 (1997)二十五絃箏:野坂操壽
はいきなり素晴らしい演奏。古風な旋律が緊張感を持って流れ、時に絢爛とした技巧が駆使されます。
古い仏像を観ると、その秘められた美しさと共に、彫琢の繊細さが凄いのですが、そういう意味で言えば、豊饒な古代がここに有ると感じました。
耳を澄ませば澄ますほど、骨身が愉しくなる、格別な音楽です。
野坂さんは相変わらず、純白の着物に青い帯が映える、一撃必殺の美しさで、蠱惑的でさえありました。
肩の所作が水泳選手のバタフライの様で、その迫力は宮崎アニメのラムダ薬師寺のレリーフの天女を思わせました。
余計なことで失礼ですが、今の野坂さんは心身の総和ということで言えば、一つの極にいらっしゃるのではないでしょうか(多分)こういう演奏を聴けることは、とても幸せなことです。
ここで舞台の配置転換。その間に、片山さんは「何か喋れといわれた」とのことで、ちょこっと話していました。
それにしても片山さんの最近の活躍は凄いです。ホールの中でも外でも片山さんの噂をしている人が多く、特にその美男子ぶりについて話している人が多かったです。きっとCDが入っている紙袋を手放せば、女性がわんさか寄って来るのでしょうが、マニアは寄り付かなくなるに違いありません(難しい選択)
片山さんは、伊福部昭さんは同じメロディばかり書かれていたけど、それは自分の音色を大切にされていたからだ、ということを仰っていましたが、その効果は次曲にてきめんでした。
2.頌詩 『オホーツクの海』 (1958/1988) 更科源蔵・詩
ソプラノ:藍川由美/ファゴット:水谷上総/コントラバス:吉田 秀/ピアノ:安宅 薫
が凄い曲で、音符の一つ一つが奏される度に、大地が鳴動する様なのは、驚くばかりです。
アイヌの怒りを唄ったもので、強力なファドの様だな、と思いました。同じ様に酒場で唄ったら映えるかも・・・と思ったのですが、みんな驚いてしまうに違い有りません(笑)
藍川さんの歌唱は最高の一語で、正直以前は、学術的な歌手だけど、それ以上ではないな、と思っていたのですが、伊福部作品を唄うと凄いです。伊福部作品の不定形な所が、藍川さんの正確さを中和しているのと、なにより、伊福部作品への思い入れ故に違いありません。
横の人も余りの迫力に謝っていましたけど、私も一緒に謝らせて頂きます(笑)
それにしても、最初、この胸の大きいドレスの人は誰だろう、と思ってしまったことは秘密d(海の藻屑になりました
3.『蒼鷺』 (2000) 更科源蔵・詩
ソプラノ:藍川由美/オーボエ:池田昭子/コントラバス:吉田 秀/ピアノ:安宅 薫
は彼岸に訴えかけるような曲。前曲ではリズムに合わせてどっしりと使われていたベースが、小刻みに震え、藍川さんの声は伸びやかに空間を飛んでゆきます。蒼鷺の羽が起こした風が、会場を巻き上げるような歌唱で、圧倒的な声量でした。
悲劇性を帯びた音色を聴いていたら、行きに乗っていた電車が人身事故を起こした事が、ふっと頭に浮かびました。どのような方か、怪我の程度も分かりませんけど、御多幸をお祈り致します。
4.『ヴァイオリン・ソナタ』 (1985)
ヴァイオリン:奥村智洋/ピアノ:新垣 隆
も熱演で、両端楽章終結部の気迫、緩楽章の切々とした歌い方が良かったです。近くでも熱演だ、との声が上がっていましたが、ただ、もう少し欲を言えば、ヴァイオリンですとか、旋律旋律をもっとくっきりと描き分ければ、更に良い演奏になったと思います。どうも、ヴァイオリン、ピアノは凄いものを聴いたりしますので・・・。もし、庄司さんが演奏してくれたら、泣くと思います(笑)芸風的にも合いそうですし、宇野先生はベルリン・フィルはカラヤンの後任にヴァントを据えるべきだった、と言っていましたけど、それよりは実現の望みがあるかもしれません(笑)
聴いている時はちらほら不満も有りましたけど、耳に鮮明に残って、消えない演奏でした。
ここで再び片山さんが登場。それにしても片山さんの最近の活躍は凄いです。最近は読売で書評をなさっているようですし、ブロードキャスターが後二年続いていたら、きっとコメンテーターになっていたに違い有りません(多分)
伊福部昭さんは色んな作曲家から常に学んでいた、ということで、先ほどのヴァイオリン協奏曲はヤナーチェクを参考にして作られた、ということを仰っていました。
そういえば、有橋淑和さんのCDの解説に、タンスマンという作曲家を高く評価しているらしいことが書かれていて、タンスマンって誰?と思いましたけど、伊福部昭さんは向学心には感心させられます。
古典は中々理解の難しいもので、老子でも「学を絶てば憂い無し」なんていう言葉は解釈が難しい言葉ですが、伊福部昭さんは老子が戒める学びを避けた上で学びを重ねて、いつものメロディ、本来の自分、「道」に帰ってきている感じで、家学が精確に音楽に展開されている事を強く感じます。
5.二面の二十五絃箏による『日本組曲』(1933/1991)全曲
二十五絃箏:野坂操壽/低音二十五絃箏:小宮瑞代
ではお二人とも、ちょっとお洒落な普段着っぽい服装で登場。中々新鮮です。
第1楽章「盆踊」はオスティナートに繊細な味わいが有って、抑えたタッチに小気味良い気持ちにさせられます。
第2楽章「七夕」はシックな曲調の中で、技巧が駆使されていて、はらはらと鳴らす閑かさが良かったです。
第3楽章「演怜」はやっぱり筝を叩いていたんですけど、これはホールの地面によって、きっと音が変わりますね(^_^;)スケルツォ的な曲調がの楽しさが、筝を駆使することで、一層豊かになります。
ところで昨年の感想で白川静さんと伊福部昭さんが似ている事を書きましたけど、共通点は、世の中の拙い意味での普遍化・均質化に対して異議を唱えたことや、東洋の古代といったフィールド等など色々ありますが、白川静さんを読むと伊福部昭さんが分かるような所が有ると思います。
平凡社ライブラリーの「文字逍遥」に入っている「遊字論」「道字論」によれば、「道はもとより遊ぶべきところである」とあり、「神のみが、遊ぶことができた」また「神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた」とあります。荘子の「逍遥遊」の遊とはこういう遊で「神の絶対自由をモデルとするものである」そうです。
つまり荘子は神の世界に遊びつつ、思索をしていたようです。そして神を尋ね求める字が「尋」でこれは舞楽を踊っている人を表しているそうです。
また「祭は人と神が相会するための儀礼」だそうです。
僕が思うには、伊福部昭さんは音楽で「遊」び、「尋」ねていたのだと思います。意識的なり無意識的なりに、老荘(東洋の古代)の思想を音楽的に表現していた。若しくは、老荘と同じ事をやろうとしていた。だから舞楽や祭りに取材した音楽が多くて、巫女さんがテンションを上げて行く様な、激しい終わり方をするものが多いんだと思うんです。
そういうわけで?第4楽章「佞武多」は徐に始まって、オスティナートのラッシュに入りますが、三回忌公演の時に比べると、やや大人し目でしたでしょうか。目が慣れたせいかも知れませんが。
野坂さんも良かったですが、ここではフォローする小宮さんの冷静さに目が行きました。筝の音色も、独特の抑揚の効いた熱っぽさがあって、自分の音色を持たれている方なんだな、ということが確認できました。くーるびゅーてぃーだと思いました。
繰り返し同じメロディ流れるのですが、繰り返すほど、終わるのが惜しくなる演奏でした。
カーテンコールの時、野坂さんが藍川さんを探して舞台上をさまよっていましたけど、こういう形を作らない所が、一連の伊福部音楽のお祭りの好きな所です(笑)
今年も関係者の方々は有難うございました。お疲れさまでした。
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