行ってまいりました。
今回のテーマは余白の美だそうで、伊福部音楽の一方の精髄を聴けそうで、楽しみでした(笑)
それにしても、余白の間に何があるかといえば、空気感があるわけで、伊福部先生は場の空気そのものを作ることができた作曲家といえるでしょう。
最初は1.「二十絃箏曲 『物云舞(ものいうまい)』 (1979) 二十五絃箏:野坂操壽」。野坂さんは相変わらず呼吸が素晴らしく、没我の状態で(多分)曲想に合わせて息をひそめたり、ふっと吐いたりといった事が、所作とあわせて既に芸術的。
曲に舞わされている様であり、舞いながら曲を奏しているようでした。
昔の人が聴いた音楽の醍醐味も、そこら辺にあったのかもしれません。
演奏にあわせて動くもみあげが、いつもかわいらしいと思うのですが(失礼)今回も良かったです。
激しく、厳しくも悠々とした演奏で、音の無限が身体に広がっていくようです。音階のはらはらとした音だけでかなり感動させられます(笑)
続いては2.「二十五絃箏曲 『幻哥(げんか)』 (1994) 二十五絃箏:小宮瑞代」。小宮さんの衣装はビロードというのでしょうか。赤い、東洋的にして国籍が良く分からない服装。
やっぱり汎東洋的な感じにしているのでしょうか?もし匈奴に嫁いだ王昭君の映画を撮れといわれたら、小宮さんを主人公にします(笑)
演奏は冷静で、若女将が湯加減をみるような、しっとりとした手さばきが瀟洒です。
野坂さんの余白がフルトヴェングラーの如き緊迫感だとしたら、小宮さんは空中に音を放つような感じで対照的。曲自体が何か詠嘆調といいますか、哀感を湛えていて、小宮さんの宙ぶらりんとした余白がぐっときます。
トレモロのような細かい奏法も見事で、伊福部さんも楽器を知悉して作っていたんなぁ、と思わされます。
それにしても「伊福部は、原初的なものに強く憧れた作曲家だった」とプログラムの最初にありました。原初的といえば白川静さんで、私は伊福部昭さんとお二人は大体同じ事をやっていたと思っているんですけど、なんでこのように相似形の二人が同じ時期に活躍したのでしょうか?それは時代の流れだった、のではないかと思います。
法隆寺の宮大工だった西岡常一棟梁の「木に学べ」という本で学んだんですが、終戦直後に聖徳太子がお札のデザインにのったのは、飛鳥に帰るべきだ、という意味が込められていたそうです。「終戦のときの政府の要人の考えかたっちゅうものは正しかったと思いますよ」と西岡棟梁は書かれています。
この飛鳥へ、日本人の原点への回帰という社会の動き・要請にそれぞれ、学問と芸術の分野から応えたのが、白川静さんと伊福部昭さんだったのではないでしょうか。
701年以降の二十数年の間に崩壊、減失した、自然と融即的な関係の世界を探求した白川静さん(白川さんはここに断絶を設定するのですが、実際西岡棟梁によれば、天平になると建物が既にだめになってくるのだそうです)と、そういうものに近い環境に囲まれて成長して、音楽を書いた伊福部昭さん。武満徹の音楽は日本の経済とリンクしている、といわれますが、伊福部昭さんは日本人の原初の精神と関連した作曲家なのではないでしょうか。
それから時代は流れて、一万円札は福沢諭吉に変わり、日本は飛鳥の人たちのように、外来の文物を日本に合わせた形で、日本的なものをベースに、取り入れることに失敗したとも言われています。とにかくそういう路線でやってきて、行き詰まり、新政権が誕生した今こそ、また我々は飛鳥に帰る必要があるのではないでしょうか。それにはまず白川静を読んで、伊福部昭を聴く事で、実際こういう時代に白川静が流行り、伊福部昭の音楽が回を重ねていることは、必然だと思うのです。
そう考えると、このコンサートは、確かで意外なほどに厳粛な意味を持っている、様な気がします。
3.「『摩周湖』 (1992) ソプラノ:藍川由美/ヴィオラ:百武由紀/ハープ:木村茉莉」は藍川さんの会場を満たし尽くす歌声が、圧巻。一瞬、片山さんが舞台裏からでしか聴けないとしたら、もったいないなぁ、と思ってしまったくらいでした(笑)(何時でも聴ける?)
ヴィオラは匂い立つ霧の様でも、たづの鳴き声の様でもあり、ハープはきりりとした空気感を伝えるようでもあります。風景そのものが歌に乗って飛んで行くような演奏だと思いました(笑)
それにしても伊福部昭(以下略)シリーズは会場の空気感が良くて、伊福部音楽の世界を知り尽くしている人たちが演奏している、という雰囲気だけで、感動的なものがあります(笑)
4.「ハープのための 『箜篌歌(くごか)』 (1969/1993) ハープ:木村茉莉」はハープがひたすら弾き続ける作品で、どんどん混ざる残響が教会の様。伊福部さんの狭くて広い作風が込められています。
今回は片山さんは登場しないのかな、と思っていたらここで入場。拍手の雰囲気には、まってました、というメッセージが込められていたと思います(笑)
場を繋げといわれたそうで、楽器には格がある、と伊福部さんがおっしゃっていたという話をされていました。格といっても楽器の個性の様な事のようで、どんなにいい平皿でもスープは盛れない、それぞれの楽器には良さを引き出す曲がある、とのことで、ヴァイオリンとかは既に昔にそういう曲が作られてしまっているので、難しい。現代曲の特殊奏法みたいなのは楽器がかわいそうだ、という事を仰っていた気がする、と言っていたような気がします(笑)
この言葉を証明するかのように、5.「『因幡万葉の歌 五首』 (1994) ソプラノ:藍川由美/アルトフルート:西川浩平/二十五絃箏:野坂操壽」は詩に曲想が寄り添った作品。
「新たしき」はしんしんとしていて、澄み切り過ぎているような音色から、家持の心情が香って来るかもしれません(笑)
「うら悲し」の絶唱は、胸をかき鳴らして耳から離れないもので、宇野先生のあはれのあの話の作曲ヴァージョンだなと思いました。
「桃の花」の所ではぱっと明るくなりますし、「鳴くほととぎす」ではぽろぽろと箏が鳴きます。
自然に作曲して自然に名曲になったような曲で、流石です(笑)
終わってみれば、怒涛のオスティナート系の曲は一曲もなく、伊福部音楽のそれを除いた側面をじっくりと味わえました。
終わって、こんなに爽やかな気分になるコンサートは初めてかもしれません。
伊福部音楽の持つ自然さ清明さ、何よりも楽しさが全開したコンサートだったと思います。
携わられた方々は、毎年ありがとうございます。
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