銀座 ヤマハホール 北村季晴:おとぎ歌劇「ドンブラコ」 宇野功芳&アンサンブル・フィオレッティ

#音楽レビュー

行って参りました。

当日券を求めて並んでいると、中川さんがいらっしゃって、しばし雑談。
企画がボツった話や、オケを招く値段とか、普段知りようもない事を色々話していただけて、楽しかったです(笑)

なんでも今、ハイドシェックが秋田にほぼ観光に来ていて、満喫しているそうです。ハイドシェックとかブーニンとか、そういう古典の枠をはみ出しかねない、闊達なピアニストに日本は住み心地が良いのかもしれませんね。何といっても宇野先生が生息できる国ですからね。

最初は唱歌から。

「虫の声」はやはりモーツァルト的。チャーミングな、囁く虫の声が効いています。
「花」や「早春賦」は原曲の美しさが活き切った名演。
ピアノに細かく丁寧に指揮しているのを聴くと、ああ、表現の世界へ還ってきた、という感じがします(笑)
「真白き富士の根」は知らない曲ですけど、広々明るい良い曲。
「故郷を離るる歌」は感興極まる演奏。「我は海の子」とかもそうでしたけど、弱音から朗々と歌う部分までコントラストが良く付いているのに、品がある所が芸格の高さです。

ここでドンブラコについての対談が。
作曲された明治45年は江戸時代、龍馬伝の頃の雰囲気が濃厚だったとのことですが、なんでもこの作品は47抜き音階が流行る前の明治の曲なので、かえってハイカラなのだそうです。
また当時の人にとって鬼やお化けは身近な存在で、悪いということを説明しなくても分かったのだが、今は身近ではないので、鬼が悪いという事を説明しないと、桃太郎たちが4人で鬼をいじめている様になってしまうので、手を加えたとのことです。
鬼はロシアの暗喩なわけですが、作者が石川啄木的な哀悼の視点を持っていた、というのはあり得ませんかね?
妖怪は、ゲゲゲがどうで今は流行っている、とかそういう話もされていました(笑)

まぁ、最近は鬼やお化けは身近に存在しないわけですが、これはやはり明かりが隅々まで普及したことが大きいでしょう。五感全体を使って生活していたものが、より視覚だけで済む様になった時に、鬼たちは姿を消したのだと思います。
昔から思っていたんですけど、それが現在、視覚を無上に鍛えることによって上達するシューティングゲーム。東方Projectによって、妖怪たちは興隆を迎えようとしているわけで、これは同人ゲーム史上最大の皮肉といえましょう(二番目は知らない)
しかし、本当に上達すると、視覚を超えた「みていてみていない」ような状態になるような気もしますし、目も悪くなるような気もしますので、視覚的とは一概には言えませんかね?

ドンブラコは最初のおじいさんとおばあさんの掛け合いがなかなか見事。桃太郎の長身の岡島さんのりりしさが光っていて、まさに桃太郎そのものでした(笑)

黍団子を作るのですが、木遣りの担当は、宇野本人。
宇野先生は肺病を患ったことがある方で、今回も大丈夫なのかな、と思っていたんですけど、非常に勁い、通る声で、意外にも(失礼)ご自身の音楽性の方向通り、澄んでいます。
帰りの地下鉄でも、80歳なのに・・・という感嘆の声がちらちら聞こえてきました(笑)

音楽では、犬猿雉が集って来る所の、世界は開けている、といった感じの雰囲気が良かったです。
鬼ヶ島に入っていくのですが、ばんざーいと叫びながら討ち入る所が今日からみてシュールです(笑)万歳って明治のこの頃には完全に定着していたんですねぇ。
鬼はロシアの例えだそうで、終幕では大日本帝国を讃えて、君が代を歌って終わるのですが、ヒーロー物の延長といいますか、人の素朴な生き生きとした世界とノモス的な世界が何の疑問も矛盾もなく同居している所が凄いです。
愛国心というのは、素朴かつ洗練された形では良いものだと思うのですが、ここでは既にノモスというべきものに、かなり変容してしまっていると思います。
何といって良いか、、ノスタルジックといいますか、ある種の清らかさを感じます。

宇野先生の評論ですけど、「名曲でなければどんな大ヒットした曲でも歌わない」とチラシにも書かれていましたけど、宇野先生はとりあえず主体的に曲や演奏と向かい合っている人だと思うんです。
宇野先生の感性が万能だとはもとより思っていませんけど、宇野先生の評論は宇野先生なりの、イデアを探求する作業であると言えると思います。
それを巨大なノモス的世界、もしくはノモスを裏返した形のノモス的世界と捉えた所に、いわゆるやや盲信的な意味での信者の方ですとか、アンチの方ですとかがいらっしゃる、という風に私は考えています。
しかし、宇野先生は一応イデア探求的な見地から評論を述べているので噛み合わない。ノモス的だとみている人とは噛み合わない。そこに理解出来ない一点が生まれて、飽きられにくい理由が出来る。信者は信じ続けるし、アンチはたたき続ける、とこういうことになっているのではないかと思います。これが宇野功芳という現象の核心なのではないかと思います。

これは孔子と孟子以降の儒教との間にも、似たような事が言えると思います。宇野先生は孔子並の人物なのです。

アンコールは無く、時間的には10時前には帰れる位。
カーテンコールでは宇野先生が会場に応えて笑わせ、これがマツケンの指差しの様な効果。いつもの砕けた雰囲気で終幕となったのでした。みなさまおつかれさまでした(^_^)

コメント

タイトルとURLをコピーしました