東京国立博物館 特別展「写楽」 その2

#その他芸術、アート

最近前に録り溜めていた「世界一番紀行 世界で一番大きい温泉 ~アイスランド・ディルダルトゥング温泉~」をみたんですけど、発電、ハウス栽培に熱湯とマグマを生かし尽くした生活が良いです。
アイスランドは昔からファンだったんですけど、クリュチェフスカヤみたいなもので、極寒の地に大地のエネルギーが吹き出しているんですね。
プレートの両端にある、アイスランドと日本。地熱生活の格好のテキストになるかも!?

それにしても、村上さんのスピーチを否定した、報ステの寺島さんは衝撃的でしたね。
日本の原子力は世界で類のない平和利用、って本当に日本の原発の歴史を調べて、そう思っているのでしょうか。事故を招いた構造に触れずに、原子力技術で世界に打って出る?

大した人ではないと思っていたけれども、あそこまでどす黒かったとは知らなかった。何を主張するにも、安全面などは無理でしょうから、せめて経済合理性位の話はしても良かったと思うんですけど、具体的なことは何一つ語らなかったですね。
原発の話はその人のお里がわかる。答え合わせをしているような気分になりますね~。

現代の日本は各業界にたまに、ぽつん、ぽつん、とまともな人が島のように浮いているのが実情だと思うんです。インターネットはそういう人たちが横に繋がり得るツールになりますね。再生可能エネルギーへの転換に向けた取り組みの周辺をみていると、そういう事を感じます。

写楽だけでは持たないだろうから、周辺の絵師も厚く紹介されるのだろうと思っていたのですが、どちらかというと写楽にこだわりぬいた展覧会で、そういう作品は少なめ。
写楽は売れなかったといわれていますが、第一期は残存枚数が非常に多く、全体でみても歌麿より残存率が高いくらいなのだそうです。作画期間がもっと長い国政などと比べても3倍くらいの枚数が残っているのだとのこと。

カタログでは論者によって写楽が筆を折った理由の結論がまちまちで、寛政の改革を避けたという説が一つ。海外の研究者の人は、この時期に蔦屋重三郎は多くの作家からあいそをつかされており、写楽もその一人に過ぎない、と聞きなれない説を唱えていたのですが、何であいそをつかされたのかには言及が無かったと思います。

勝川春章の「三代目松本幸四郎の漁師姿」は渋くいなせで、流石の力量。「東扇 初代中村仲蔵」はごろつきっぽさが良く出ていて、町でもよく見かける作品ですね。

写楽を準備した人たちということで、勝川春好が大首絵を開発し、流光斎如圭の「芳沢いろはの傾城吾妻」は男が女形をやっているのがわかる絵になっています。

「吉原細見 寛政6年春版」は真ん中を境に文字がさかさまになっているんですけど、何ででしたかね。地図みたいな感じなのかな。

「歌撰恋之部」のピンクの雲母が凄まじく状態がよくて綺麗で、はじめて歌麿の生々しい女性の体温を伝えるリリシズムに邂逅したかもしれません。太田美術館などではここまで状態の良いものは見かけなかったと思います。フランスのギメとアメリカのホノルルは恐ろしい美術館です。

「婦人相学十躰 ポペンを吹く娘」は教科書でだいたい載っていますけど、生で見たのは、しかもこの状態のものは初めてです。
「婦女人相十品 文読む女」などには歌麿考画と考えたんだよ~ということが書かれていますけど、広重の版下絵などをみると指示は極めて簡略で、彫師の芸術性をもって構図の調和をもたらしているんだな~、と痛感します。

写楽の特徴は「動きを孕んだ描写で、ポーズを曲線的に表現する」所だそうで、かなり言い尽くした文章なのではないかと思います。
「江戸兵衛VS奴一平」という、今の歌舞伎の映像と写楽の絵を比べた企画があったんですけど、今の人は普通に歩きすぎです(笑)
江戸兵衛のポーズは写楽の方がより前傾していて、迫力がありましたし、奴一平は写楽の絵では体を引きつつ直立したままそろりと抜いているのですが、映像では普通に抜いてしまっていました。

「初代尾上松助の松下造酒之進」は微妙に乱れた髪に迫力が宿ります。
「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の新町のけいせい梅川」は役者の対照が理想的に生き切っています。

だんだん描写が下手になってくるということで「二代目嵐龍蔵の大伴の宿禰山主」の肩の位置がおかしいと指摘されていましたが武術とか日本舞踊でも肩を割るとこういう位置にくることがあるので、取り立てて不自然ではない気も。

震災の影響が及んでいて「六代目市川団十郎の行成の息男みまな行教」などの作品は、来られないとのこと。全貌を通観し難い所も写楽らしいですかね。

代表作は何度もみるのですが、後期のものはみたことが無いものも多く、評価も高くないのですが「橘屋中車(三代目市川八百蔵の八幡太郎源のよし家)」とか、顔から静かに江戸弁を発している感じが面白く、あんまりみないですけど、十分良いと思います。

ここからは同じ役者を描いたものを作者違いで並べたコーナー。
「二代目坂東三津五郎の石井源蔵」はあだ討ち失敗のやられ役のひ弱さを感じさせつつも、触れれば骨まで切り込んできそうな、気合が漲っています。
名絵師にかかると怨念がかくもドラマティックに、美しくなりますし、それは心が美しい女性でも変わらないのだと思いました。(?)
歌川豊国の「役者舞台之姿絵 やまと屋(二代目坂東三津五郎の石井源蔵)」は静かでビックリ。勝川春英の「二代目坂東三津五郎の石井源蔵」は口が溶けている??

あと、失敗といえば失敗学の人が検証を取り仕切っていますけど、この学問については、新聞の記事などで見聞しただけですが、危惧を抱いていた面がありました。
失敗を繰り返さないにはどうすればいいかというと、やはり責任者が責任を取る・取らせるということが一番の基本だと思うんです。SPEEDIにしても、一番の責任者が分からなければ、個人個人をみていった上で、全員に責任を取らせればいい。そうすれば次に似たようなことがあった時にちゃんと公開するようになると思うんです。逆に言えば、戦争、バブル・その崩壊の処理にしても、責任のある人に責任をとらせなかったことが、今回のミスの直接的な原因になっているということです。

では責任を取る・取らせるということはどういうことかというと、これは覚悟なんですね。そして覚悟とは何かというと結局は人格的な陶冶から生まれるもので、この失敗学という学問は、下手に構築してしまうとそういうものがなくとも、小手先の仕組みの改変で失敗が避けられるようになるのではないか、という空想を抱かせかねないものであると思うからです。そして今回この人を座長にした人たちは、実際にそういうものを期待しているのではないか――――――――。

もちろん仕組みを整備するのは必要ですが、そこに主眼をおく限り、日本は永遠に失敗の螺旋から逃れられないと思います。結局は人間を育てて、その育った人を尊重することが、一番の失敗学だと思うのです。これは情報漏洩などの問題を含めて、経済的にも、企業にもいえることだと思います。そのためには東洋n(以下省略されました

ということで、無責任な方向に行かないように、生暖かく見守る必要があると思います。

「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ」はあからさまに描いて綺麗ではないと評される写楽の女形ですが、よくみれば楚々とした心が薫ってきます。
勝川春英の「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ」は愛嬌があります。

「三代目沢村宗十郎の大岸蔵人」は眼と扇子で語らせる情報量が、暑苦しいくらいに多いです。豊国の「役者舞台之姿絵 きの国や(三代目沢村宗十郎の大岸蔵人)」は姿の美しさでみせる方向性。勝川春英の「三代目沢村宗十郎の大岸蔵人」はとぼけた感じ。

こうやって比較してみるとよく分かるのですが、写楽の過剰な位の画面に込められた躍動感が、五百羅漢図の前期を思わせました。
写楽に正面から取り組んだ、良い展覧会だったと思います。これだけのものが一堂に会すことは無いだろう、とのことですけど、確かに世界中からかき集められていて、名残惜しかったです(笑)ありがとうございました。

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