渋谷パルコ 岡本太郎生誕100年企画展 顔は宇宙だ。

#その他芸術、アート

とこしえに続くかと思われた菅政権ですけど、流石に交代しそうですね~。
菅直人という人のキーワードはやはり「団塊」+「学生運動」でしょう。

「私も、あの紛争は内部に必然性はなかったとおもいまして(石牟礼道子)」(中略)「結局、内部の権力闘争なんですね(白川静)」(回思九十年 368ページ)とお二方が学生運動を振り返られていますけれど、これは菅直人の特徴でもあったでしょう。

内部というのは、内的必然性という意味を含んでいると思うんですけど、言葉や行動の内的必然性の乏しさ。
たとえば市川房枝さんの周囲にいらっしゃった方も、あまり良く言っていなかったですけど、考え方は違うのにブランド―――実を取りに行ったわけでしょう。

そしてそこから来る一貫性の無い、場当たり的な判断。

また学生運動は内部で女性に冷たかったと聞いています。女性が少ない菅内閣は共通した特徴を持っていると思います。

歴史的意義ということで考えれば、菅直人という人は、団塊、そして学生運動という現象がどのような本質のものであったのか、という事を開陳する為に存在しているのではないかと思います。

団塊の世代で尊敬する人はたくさんいますが、全体としてみた時にこのようなことがいえるのではないかと思います。歴史の清算なのではないかと思います。

・・・と、こんなことを書いているうちに、震災が来てしまったのですが、なんでこれほど混迷を極めているかといえば、そもそも鳩山政権がいかんのでしょう。

最初の組閣からして論功行賞的なものでしたけど、野党の間に思想と、それに沿った人材を見極める眼を鳩山が養っていればそういうことはしなかったはずで、要するに野党時代の準備から良くないんですね。
他は眼をつぶるから、前原と平野だけは外せ、とよっぽど投書をしようかとも思ったのですが、、、、。

今回も担ぐ神輿が無いといっていますけど、どんな立場の人間であれ、自分の眼で観て良いと思う人間を虚心に押すべきです。どうなるにせよそういった正しさが、民主党を正しい方向に導いていくだろうと思うのです。

しかし今回の選挙は、原発をはじめ、記者クラブメディアの間では争点のすり替えが行われていて、暴力団献金の事などは扱われません。発展的な政策の競い合いが行われていないのが現状でしょう。

一点ということでいえば、結局はこれも鳩山が貫徹しなかったのが良くなかったのですが、次の総理には、記者会見を解放する約束を守っていただきたい。あとはクロスオーナーシップの禁止。
中央集権メインフレーム型、という言い方で言い尽くせるかどうか解りませんが、日本の軍隊的な、包括的なシステムの、やはり一番の急所だと思うのです。

行って参りました。
この日は何やら同じ構内で韓流スターのイベントがあるらしく、雲霞の如き人出。これだけ動員するのは凄いですねぇ~。

会場の入り口では今年の3月11日に出た、交友を綴った本が出ていたんですが、巻頭に置かれていたのが石原慎太郎で、東方ファンとしては非常にイメージダウン。
他には三島との付き合いもあったみたいなんですけど、まぁ、書いてあるエピソードは少ないし、一緒に納まっている写真もなかったので、許容範囲ということですかね。

今回の震災でもジャーナリストの上杉隆さんは良い活躍をされましたけど、石原慎太郎と親しく会食などをしていることが気になる人も多いと思います。
私なんかもああいう人の近くではとても息が出来ないので(多分)、そういう疑問は大切にしたいと思っています。

たとえばパチンコ廃止はどうなったのでしょうか。石原都政の失敗や原発問題に切り込まず、身内に都合の良い情報だけを垂れ流しておしまい、では記者クラブメディアと何が違うのでしょうか。

しかし、やっぱり検察が動かないのはおかしいと思います。天竜川の方がずっと重要なのでしょうか。拝金主義の匂いを感じざるを得ません。

「顔のグラス」は工業製品で、グラスの底に顔があってもいいじゃないか、というCMが流れていたらしく、恐らく本人が出演していたのでしょう。
こういうブラウン管に良く出てくるような人でも、引っ込み気味の人でも、その部分は良い悪いに関係が無いので、平明に見切りたいところ。
岡本太郎は没後に評価が急上昇しているというのですが、本人から放たれるインパクトが、没後になって丁度良くなったという面があるかもしれません。

著名人との写真が並んでいて、印象に残るのはやはり魯山人との一枚でしょうか。お互い評価していたみたいです。

「坐ることを拒否する椅子」は「路傍の木の根や岩に腰掛けるような」感じを出すために、わざと坐りにくくしているとの事。

木に腰掛けるといえば明恵上人の有名な画幅ですけど、なんでああいう所に腰掛けるかといえば、一つは自然が師匠であるということがいえるでしょう。昔のお坊さんは、非常に自然と向き合うことを大切にしていたようで、それはどうも和歌の伝統とも関係があるようです。異常なほどに豊かな生命力を持つ、日本の自然に身を置いているものの、創造的な仏教なのかもしれません。

鳩山一郎のウィキペディアをみると、公職追放中に畑仕事に精を出している写真が載っているのですが、現代の政治家で閑な時間が出来たとして、こういうことをする人は少ないでしょう。
それは戦後が自然と向き合って体を動かすことで成長する、という価値観を捨ててきたからで、自然エネルギーの普及と地域分散型への移行にあわせて、こういった価値観の復興を図るべきではないでしょうか。

こういう面からみると最近でも例えば、原子力関係の学者と、自然エネルギーの学者はキャラクターが大分違いますけど、自然に対する向き合い方の違いが一つの理由になっていると思います。
小出教授が高度経済成長期以前の東京の風情を愛されていた、というのも非常に示唆的だと思います。

ただ二ついえば、小出さんは良くみんなに責任があるというのですが、上の世代の人に聞くと、みんな知らなかったといっています。いきなり責任がある、といわれても困ると。
なぜ知らないのかといえば、マスコミに問題があるのであり、問題の急所はそこだと思うのです。

今回の事故は、まず第一に記者クラブメディアの責任であり、広告費・中国ツアー(によって報道を自粛したこと)の代償は果てしなく重いと思います。
事故後にしても電力会社から政治家への献金などは、何度も特集を組んで大きく扱うべきことなのではないでしょうか。
汚染物質を放射線管理区域から持ち出すと法律に触れる、というお話も同じ事だと思います。

もう一つは汚染されている食物でも大人は責任を持って食べるべきだ、ということで、汚染されている食物は避けて、東電の賠償で第一次産業の崩壊を食い止める、という方法は無いのでしょうか。安全なのはお金の有り余っている人だけ、ということにはならないのでしょうか。

椅子に戻ると、もう一つは自然のごつごつしたところにあわせて坐るには、それに柔軟に適応させる身体性が無いと坐っておられず、そこら辺の重要さを直観的に表現した椅子のような気がします。

原初主義というのはいわば自然主義的な所があって、ヒューマニズム、人間中心主義の尊大な部分を衝く様な所があるんですけど、この椅子もそんな所をついているのかもしれません??

大作「豊饒の神話」の雑多なエネルギーも素晴らしかったですし、同時開催の展覧会にも無い、岡本太郎の多面的な部分をみせてくれる展覧会でした、ありがとうございました。

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