Bunkamuraザ・ミュージアム フェルメールからのラブレター展 コミュニケーション:17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージ その2

#その他芸術、アート

震災から一年ということで沢山の特集が組まれていますが、たとえば7日の夜に日テレが海洋汚染の話をしていたのですが、福島の漁師が大変だという話ばかりで、東電には触れずじまいです。

東電の補償というのを釘を刺すように一番に訴えて特集を組むべきで、そうは思わなかったのなら、問題の大切な部分がみえていませんし、何かの圧力を気にしているなら、余りにも拝金主義なのか、肝っ玉が小さいです。

こういう東電に触れない力学を総覧した特集を、本来なら特にNHKが組むべきなのだと思います。
メディアを検証した番組がないのはいくらなんでも、とても偏向していると思います。
あんまり言いたくないですけど、それは最早催眠術に近いと思います。

この前の日テレの音楽祭で途中で紅白の演奏を挟んで流していたことに、驚きの声を聞きましたが、一見悪くないようにみえる他のメディアと協調が、悪い意味での馴れ合いになってしまっていたという事になると思います。

政府がAKBを起用して海外の風評被害の払拭に勤めるといいますが、本来は、安全ですよ~、というのではなく、政府の活動はこれだけ誠実なので大丈夫です、というのが一番有効なはずなのですが、それが出来ないのが一番まずいところだと思います。

そういった対応の根が、国内での「風評被害」という言葉の一緒くたな使用に表れているのではないでしょうか。

ラジオビタミンで木村慎三さんが福島の農作物を避ける動きに、安易に風評といい過ぎであると言っていましたけど、出来る所は除染を徹底的にやるということが出来ていない、ということです。

消費者意識を考えないやり方に問題がある、とのこと。

ただ木村慎三さんはがれきの広域処理を支持していることを、付け加えます。

行って参りました。

この頃のオランダ風俗画はなかなか良いのですが、「バタヴィアに根拠を置くオランダ東インド会社による香料諸島への進出は、ポルトガル人にもまして暴力的だった。」(「東インド会社とアジアの海」 (興亡の世界史) 羽田 正 (著)91ページ)らしく、この頃のスペイン・ポルトガル・オランダなどの美術を観ていると、危ういものに観えてしまうのも事実。

「大航海時代」系の美術展に行くと大体こういったことが省かれていて「交易による富」と奇麗事に置き換えられているのですが、やっぱりこの頃の美術を語る上でこういった振る舞いを語ることは欠かせないと思います。

一方で学術的な手紙など、近代の萌芽が出展されているのですが、そういったものをそれらと総合して「近代ヨーロッパは、一体化したそれ以前の世界の人々の様々な活動が総体として生み出した世界全体の子供なのである。」(同 361ページ)
といった結論で纏めるのが、総合的で宜しいのではないかと思います。

司馬遼太郎さんは、キリスト教という「真空」を証明するために科学が発達した、ということをいうのですが、やはり奇麗事で、こういった認識が氏のオリエンタリズム的な著述を可能にしています。

航海術や測量術や言語学など、学問が東方から利益を得るために発達していきます。

ヤン・ステーンの「生徒にお仕置きする教師」は痛そうに見詰める廻りの子が、なかなか雰囲気が出ていました。

前にも引用したフロイスの語るヨーロッパの教育風景ですが、日本は真逆だったとのこと。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52356636.html

「河鍋暁斎戯画集」(河鍋 暁斎 (著))には明治に暁斎が応賀という人と文明開化を皮肉って刊行した本からの図がたくさん引かれていますが、こういった活動はだんだん時代の波に飲まれて消えていった模様。

中に「寺小屋で遊びふざける子供たちを暁斎に描かせた」(191ページ)図があって、明治の教育を皮肉っていますが、こういう寺子屋的な自由な空気はむしろ今、日本がお手本のにしようとしている、北欧圏の学校であるとかの方が持っているでしょう。

そういう教育の形態がかつて日本にあったと。二人の活動は途絶えてしまいますが、学校を改善していく中で、いつか必ずかつて教育の長を学校に取り込むときが来るだろうと思います。

また、この前の体罰の話のときに、文字数制限で入らなかった、文章を下に張っておきます。

(ちなみに儒教と体罰といえば「世に棲む日日」での玉木文之進が教え子の吉田松陰に対して行ったエピソードが有名でよく引用され、私も印象に良く残っているのですが、このエピソードを引用した文章にも、確かな出典がついているのをみたことがなく、創作ではないかと前から目を付けています。

「吉田松陰 留魂録 (全訳注)」(古川 薫 (著))に付いている伝記にもそういうことは書いてありません。

紙の文章では創作であるとズバリと指摘したものはみたことがなく、インターネット上でも(http://www.kobun.co.jp/idea/keiei_gyoji/10.html)で指摘されているくらいです。

ぐぐると、対談でこの話を話しているため創作ではないのではないかとの文章もありますが、創作なのではないかと思います。((http://books.google.co.jp/books?id=nCyC9wzI3KwC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false)67ページ
「「昭和」という国家 (NHKブックス)」37ページにも書いてあります。))

体罰(やいじめ)といえば戦時中は軍隊の中で酷かったようで、それを受けた人の中で根拠もなく「封建制の遺風」といわれていたそうですが、学術的には、特に日本の中についていえば真実は真逆だったことが明らかになっているわけです。体罰は近代そのものだったわけです。

そこの認識を突き詰められなかったことが、戦後の色々な学校問題に根本的な解決をもたらすことが出来なかった大きな理由になっていると思います。

現代でも特に原発事故以降、文明や近代、前近代といった言葉を精確な歴史理解の上ではなく、以前からの雰囲気で使っている例が目立つと思います。

それでは歴史から正しい教訓を引き出すことは出来ず、日本も良くならないだろうと思います。

ただ、最近はかなり減ってきたような気もしますが。

それにしても、司馬遼太郎さんの色々な文章を読んでいると「すると、驚くべきことに、多くの人はそのようなことをいっていないことが明らかになりました。」(エネルギー進化論: 「第4の革命」が日本を変える (ちくま新書) 飯田 哲也 (著))というのの祖形のようなものを感じます。

分割いたします。

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