報ステでは四号炉が危ないという事をやっていて、ゲストの佐野さんがちらっと、原発周辺の家畜の惨状を話していましたけど、本当にすべてつれて一箇所に集めるべきで、これをやらないの資金の節約以外に無いと思います。
私以外にいっている人を知らないのですが、凄まじく胸の痛む話で、今からでももっと多くの人に主張してもらいたいと思います。
国がやってから東電に請求しても良いのですが、国が東電を温存したがっているというのがやはり、一番の本質ですね。
特集の中では東北エンタープライスの人が出ていましたけど、責任感のある言葉が連続し、心のある人は東電の責任者と較べると実に良く分かります。
5月31日のNHKの九時台のニュースでは、瓦礫を、風評被害だとしたらとして、その視点からやっていましたけど、検査結果はあやふやなサンプル検査であり、化学物質などは計れていないといいます。
小出さんが強く言っていますけど、そもそもは東電が責任を持つのが最初の当然の選択肢で、それがどうしてもできないなら次、という手順は抜かしてはいけないと思います。
最近ではセシウム回収型焼却炉による処理が注目されています。
また、埋め立ての話や、どう考えても運ぶだけ余計にかかる、というのは知っているはずだと思うので、それをまったく等閑視するというのは、やはりニュースを扱う精神性・知性の問題だと思います。
このニュースは被災地の映像が流れたりするのですが、そのあとのスタジオの最後の纏めのコメントは、感情を込めようとしているのはわかるのですが、共感・感情が感じられなくて、背筋の寒い気持ちになることがあります。
枝野や菅直人の聞き取りで、テレビからは自分たちも反省しなければという声が聞こえてきて、それは良いと思うのですが、反省というのを行動に反映した時、最低やはりデモを報道しなかったことと旅行の解明は必要だと思うのです。旅行は知らされてすらいない国民が圧倒的に多い状態なのではないでしょうか。それらに対する構造的な反省が必須だと思います。
5月27日のサンデーモーニングではチャンネルをつけると、増税しないから国債が引き下げられた、ということをやっていて、これだけ疑問の多い格付け会社の評価をそのまま報じるのはそれだけで疑問ですし、増税すると景気が冷え込んで税収が減る、という説が有力です。ちゃんと削る所を削って仕組みを変えないでの増税はさらに論外です。
東電の電気料金では企業向けが安いのは競争があるためとしていましたが、極小さな範囲での形だけの競争といえ、企業に配慮をしているというのが正しいでしょう。
ここまで一瞬でしたが、これだけの短時間に、これだけの疑問のある報道を重ねられることに疑問を感じます。
枝野の聞き取りがありましたけど、避難の範囲について、記憶にも記録にもない、といった所はたとえば28日のモーニングバードでは放送されていませんでした。
こういう緊急時に記録を残さなければ責任を逃れられる、ということでは、後世にも非常に悪影響を与えると思いますので、テレビでは記録を残す体制云々、といった所で追及がとまっているようですけど、関係した人すべての責任を問う形で報道して欲しいと思います。
一方翌日の菅直人の聞き取りの報道は「弁明に終始」などといった、表現をつけてまで責任を問うものが多く、弁明するのは当然なのですから、それが正しいか否かが問題だと思います。
海水注入中断の指示が東電の独断だった、とのことですが、海水注入を躊躇って得するのは東電だけであり、道理としては辻褄が合うと思います。東電の行動はお金の動きで観ていくと大体理解できますからね。そう考えると吉田所長は誤解をしている可能性があるということですね。
浪江町のスーパーを経営していた方が自殺されたとのことですけど、こういう方には東電は、別の場所にスーパーを3つくらい提供する、これが最低、最低だと思うのです。酪農をなさっている方にも然り。
お金をケチるほどに人の魂をすり減らして行く。そして気が付かないと思いますが、東電社員、原子力ムラ自身の魂もすり減らして行く。そういった事を意識するべきだと思います。
行って参りました。
鍬形蕙斎の「両国の月図/飛鳥山図」は前にも出てきた太田記念の良品ですが、人も山もゼリー状にみえるのが、この画家のふしぎな画風です。
この日は空からの眺めと題して、スカイツリーとしていきなり(なぜか)有名になった国芳の「東都三ツ股の図」が大きな出し物。他にも似たような建物を描いた作品が沢山あるらしく、前半はスカイツリーシリーズに。
国芳がスカイツリー的な何かを描いた意味は、江戸城より高いものを描いて権力を風刺したんだ、という説があったのですが、はずれといって良いでしょう。国芳は反骨精神が旺盛ですからそういう説があっても良いのですが、西洋的な国芳が江戸的なものを否定したんだ、という所まで持っていってしまうような所まであるので、それには抗議したい所。国芳は反骨精神旺盛な所まで含めて江戸を愛した江戸っ子なんですよね。
またそれは江戸っ子の反骨を許容するゆとりを都市が持っていたことも意味して、民間まで反骨精神を忘れがちが現代への警鐘にもなるのではないでしょうか。地方の訴願・献策的な気風が江戸にもあったのでしょう。
この前のスペシャル大河で「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。」と毎回ナレーションが読み上げていましたけど、小さな国というのは、特に国土的にみれば、確かにその通りです。
他には司馬遼太郎さんは、日本は若い国だ、といっていて、これも横の中国と較べれば歴史的に一目瞭然ですし、そもそも和の国というような、本来は、良い意味で子供らしい活力のある国だと思います。
しかし司馬遼太郎さんは他の所で、日本は扇子を開発した以外無かった方が良かった国ということになってしまうのではないだろうか、と書いていて、つまり扇子というのは世界で使われるようになったので文明であり、他の日本文化のような特殊で劣ったものには価値が無い、というような事をいっているのだと思うんです。バブルで世界に迷惑をかけていた時期に書かれたものだったと思いますが、それにしても、日本の歴史に対して意外に評価が低いことに驚かれるのではないでしょうか。
つまりどういうことかというと、こういう文脈で、小さい、とか、若い、ということをいうと、事実認識として以上に、日本の過去の歴史的なストックを矮小化して認識する方向に働いてしまうんですよね。そして実際高度経済成長の時代を、日本はそのようにやってきたと思います。
国芳にしても、彼自身西洋趣味は濃厚でしたし、反骨精神も旺盛ですけど、そういう日本美術の培ってきた歴史的ストックに対して否定的な判断を下すための媒介、のように引用されることが多々あって、それが非常に残念であるしやるかたない、というのが私の感じていることです。
日本はアジアの吹き溜まりとして文化が蓄積し、熟成してきた、本来非常に高い文化力を持った国だと思うのです。そしてその軌道に復帰することが、日本が世界に貢献できる大きな仕事の一つだと思うのです。
というわけで、北斎の有名な冨嶽三十六景「東都浅草本願寺」は噂のスカイツリーこと井戸掘りの櫓が雲の上まで突き出ています(^_^;)北斎は何よりも構図を優先する絵師ですから、前に「「鎖国」という外交 」((全集 日本の歴史 9) ロナルド トビ (著) )で真面目に地理的に北斎の富士のみえ方を分析していたのはどうかと話しましたけど、当時の社会的な風潮と構図センスの両側面から、冨嶽三十六景を含めた北斎の絵はみていく必要がありそうです。
この絵自体は素晴らしく、青が基調の場面構成が蒼天を感じさせて止みません。
国芳の「子供遊金生水之掘抜」はその櫓を縦二枚で大きく描いたもの。金生水は五行思想で、良い水を表す慣用句でもあったのだそう。
広重の「東都名所 神田明神東坂」は同じく高い櫓が立っていて、日常の向こうに霞む遠景が江戸の夕暮れを伝えています。
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