NHKの出生前診断のスペシャルはかなり興味深かったですね。イギリスでは福祉費削減の経済的な視点からも出生前診断が進められていますが、模範ではないことに注意する必要があるとのこと。
思うに今回はダウン症ですけど、世の中には障碍の種類が沢山あります。障碍とはいえないですけど、ちょっと違うという感じの人は一般社会にも沢山いらっしゃいます。
恐らく技術が進歩してくるとそういう人達の事も診断できるようになって、生むか生まないかの決断を迫られるようになると思うんですよね。
その前にイギリス流ではなくて、どんな人でも社会に受け入れられて有意義な人生を過ごせるような社会を作ることに、一刻も早く重心を移すべきだと思います。
障碍を持たれている人の多くのプラスの面をいうと、原子力ムラになったり無差別殺傷をしたり社会に劇的なマイナスをもたらす可能性の少ない人達でもあって、そういう人材を社会の中で柔らかく生かしていくことは必ず社会にとって大きなプラスになると思います。
そしてそれはそういった人達を受け入れる仕組み・技術を発達させて、それは日本の強味になります。社会全体の精神としても非常にエレガントなものをもたらしますし、それこそ世界が観るだろうと思います。
政治では自民党の石原が福祉について質問されて、胃ろうの人達はどうなのだろう、ということいったそうですが、彼の親が、寝たきりの人に対していったのと同じ発想で、人を切っていく発想ですよね。
本人達が胃ろうや寝たきりになってみないとわからないのでは、国に政策として反映されるには遅すぎるのが問題です。
福祉政策では、政府は7日の閣議で、中長期的な高齢者施策の指針となる新高齢社会対策大綱を決定した。(http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012090700181)
とのことですが、ようするに90まで働け。動けなくなっても面倒は見ないよ、ということのようです。引用すると、
働き方などについて「人生90年時代」を前提とした仕組みに転換させる必要があると指摘。
意欲と能力のある高齢者には、社会を支える側に回ってもらうよう意識改革を図ることなどを打ち出した。
とのことで、保険を食いつぶすなどの社会では許されない汚職や、少子化対策の遅れ(古い思想体質によるサボタージュが本質?)など失政を居丈高に覆い隠しているといえましょう。
それは極めて不道徳であって、家庭に負担を押し付ける思想もナンセンスだといえるでしょう。
江川昭子さんは扶養義務について、親子関係は多様であるとして、伝統的な(家)から公的扶助へ移行するべしとのことですが、それはそうなのですけど、伝統的とされるイエの意識と新自由主義の「絆」を同根と考える人が多いですけど、明治になって「八十八歳以上の老人に支給されてきた養老扶持米なども打ち切られた。(中略)<人民相互の情誼>による扶助が原則とされた。」(文明国をめざして (全集 日本の歴史 13) 牧原 憲夫 120ページ)と前に引用しましたとおり(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52833079.html)、ここで転換があったことが示されています。
確かに地域コミュニティは滅茶苦茶しっかりしていたんですけど、政府にも「仁政」の理念があって責任範囲だと思っていたみたいなんですよね。
コミュニティへの丸投げは、明治以来の産物であることを強調したいと思います。
もっというと、「絆」の強調は、お金を持っていない老人を切り捨てようという動きなんですよね。やはり拝金主義で節約からきています。
また、有名な「イエ」というのもなんなんですかね。家制度の方は明治民法で定められたものですし、他にも日本での家父長制について、そんなのはついぞ確立しなかったのでは、といった文章を目にしたこともありますし、西洋などと比較して実際どれほどユニークなのか、といった比較もあんまりみないんですよね。
まとまって検証した本を読んでいないのですが、悪い意味での日本特殊論に基づく怪しい学説なのではないかという気がしています。
明治以前をその延長線上として考えて出てきた言葉なのではないでしょうか。
9月28日のNHKのスポットニュースでは、厚生年金基金の廃止を伝えていて、理由として期待通りの運用益を上げられなかった、としていましたけど、本質は使い込みと再就職先としての食い潰し、素人の無計画な利用・運用でしょう。それを伝えない報道機関は報道機関として非常にまずいのではないかと思います。
ポストに対する社会の監視が厳しくなって、再就職するうまみがなくなったからだ、という観測も聞きました。
都でも財政の悪化で障害者年金を真っ先に切りましたけど、一方でJALも銀行も国の資金が大量に入っているにもかかわらず、企業年金はそのままで、まったくどうしようもありません。国全体の無責任体制がこういったところに現われているのであって、逆に言えばそういったところを正していけば全体にかなりの波及効果があると思います。
NHK「地球の裏側でコシヒカリを作る」の特集もなかなか刺激的で、水田の向こうに山が見えず地平線が見える海外の風景が雄大です。
日本は腐り安い葉物などで地盤を整えて、米を初めすべてで、高品質を目指すべきなのかもしれませんね。
9月8日のTBSの報道特集では気仙沼の住民が浮動式の堤防を望んでいるにもかかわらず、知事がコンクリートで囲うことに固執しているという特集をやっていましたが、やはりこれはどう考えても浮動式一択でしょう。
知事が理由として、復興交付金が出る間にやらなければならないので、という事を挙げていましたが、それは住民にいうことではなく国と掛け合うべきことです。100年300年と経った時に浮動式が機能するのか、ともいっていましたけど、途中で動かして何度も確かめれば良いのであって、コンクリートに関してもそういう長期の劣化に耐えられるのかとても確証が無いと思ます。
この知事は瓦礫の広域処理の矛盾も議会レヴェルでは話題になっているのに、それを鎮めた前歴があり、国の矛盾を堂々と指摘しようという姿勢に欠ける人です。宮城県は大変な時にとても能力の低い知事に選んでしまったな、というのが正直な感想です。
9月8日のTBSのニュースキャスターでは女児連れ去り事件などをやっていて、齋藤孝さんがコミュニケーション能力が低い、とか、サークルに所属させて帰属意識を持たせて安定させて云々ということをいっていましたが、そういうのは普通の学生を見ていて出てくるだろう感想であって、こういう事件の総括としてはぬるいと思います。
続いて渡辺えりさんが想像と現実の区別がなくなっている、生身の感じがなくなっている、という事をいっていましたけど、まさに問題ズバリで、これは本来、齋藤さんが指摘するべき内容だったとおもいます。
最早NHKは観るのもあれですが9月7日の夜9時代のをちらっとみたら、停電は回避したものの、と見出しをつけていましたが、これだと電力会社等等が工夫をして夏を乗り切ったようですが、そもそも足りているのは数字から明らかであり、嘘の数字を出したことに対する追及と、それをそのまま報道してしまったことに対する悔恨を流すべきだと思います。
9月6日の日テレの8時45分頃のスッキリ内のニュースでは栃木が最終処分場の候補地になっているニュースをやっていて、それ自体は環境省の悪しき強引さと荒唐無稽さを感じさせる良特集でしたが、テリー伊藤のコメントが、最終処分場を作って観光地にすれば良い、といった電波なもので唖然。
誰かが頭を下げて作らなくてはいけない、ということですけど、これ以上廃棄物を増やしてはいけないといったメッセージはなく、推進派の寝言といえるでしょう。山本太郎さんはこの司会の二人と喧嘩されましたけど、実に賢明だったと思います。そうしてこういう人たちが重宝されてまた良く使われるんですよね。
断層が走り、水が豊かな栃木県に作るのは無理です。一部では野田邸前や近藤委員長の家の前が候補地になっているみたいですけど、比較するならば、その方がずっと良いと言えるでしょう。
日本列島というのは、良くも悪くも活発に生きている大地であって、それに日本人はあわせて、上手く生かして生きていくのが幸福への最も合理的な道になるでしょう。
そしてそこに原発が建つ余地はないと思います。
9月4日の報ステでは、首相が発生するといった、関西での15パーセントの需給ギャップが眉唾だったのではないか、といことをやっていましたけど、判断をしたのだから責任があるわけであり、首相は得意の責任を取るべきです。テレビでもそこまでいうべきでしょう。それに自局も他のテレビ局も眉唾の数字であるという大きな声を無視して、足りないの大合唱をしてきたのですから、検証するなり批判しあうべきだと思います。
原発が再稼動して助かった、といった工場の声や、電気料金が二倍になると困る、と脅迫を鵜呑みにした街の声をインタヴューで拾っていましたけど。数字的には論理的に通っておらず、注釈も無しにこういった声を拾って放送するのは疑問だと思います。
古舘さんは締めに、いかに以前は無駄な電気を使っていたのか、ということがわかった、といっていましたけど、例えば冷蔵庫など劇的に電気使用量が下がっていて、十年前の3割の水準だといいます。賢い節電が広がっており、必要な視点ですけど本質的な話ではないと思います。
政府に正面から当らないで一般論を評論して終わるのはテレビの悪い癖で、綺麗にまとめたようですけど、的外れであって、再エネの将来的な価格の下落などに時間を割くべきだったと思います。ここをしっかり言わないと将来像を含めた強いメッセージにならず、結果的に原子力ムラとの間に「バランス」が取られることになるんですよね。
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