出光美術館 芭蕉 <奥の細道>からの贈りもの 併設:仙厓展

文学

最近芭蕉はとても興味がある人物なので、行って参りました。

芭蕉の書は三期に分けられるらしく、第一期が一番緩急が付いていて装飾的で、だんだん枯れて行くそうです。
第一期は商業的な雰囲気のあった俗な時代、とされていて、日本美術は緩急が付き過ぎると、俗だといわれてしまうのだなぁ、と微妙に詠嘆。
西洋音楽ですとか、基本的に表情がくっきり付いているものが、とりあえず良いといえそうなので、ギャップがあるなぁ、と咄嗟に思ったのですが、本当に良いものは普通の意味での緩急を超えて行く、という所は結局の所同じかもしれません。

絵もたまに添えられているのですが、「「枯枝に」「世にふるは」句文画賛」が上手すぎる逸品。西行を見下ろす山の大きくてでかいことが凄く、カラスは侘びていて力強いです。しかし、カタログを立ち読みすると、絵を描いたかどうかは怪しいそうです。

「「ふる池や」発句短冊」はたっぷりとした字でユーモラス。明らかに、他の短冊と字体が違うような気もします?

「「ふる池や」「長き日も」二句懐紙」も見事な書。ふる池やは当然ですが、並べられていた、ながき日も囀りたらぬ雲雀かな、が心に響きました。
抹香臭くなりますが、雲雀の天真といいますか、そこから香る修証一如の雰囲気ですとか、そういうものを詠んだ歌だと思います。

「「雁がねも」歌仙懐紙」は、田にしをくふて腥きくち、という句が書かれて、たにしを食っていたのだなぁ、と思いました(そのまま)

「何云宛書状」はいかにもさらさらと書いた感じが、綺麗に出ていてお見事。

第三期の題名は「かるみの世界」。「平明な表現の中に高い境地を表」した歌を目指したそうで、奇を衒った当時流行の歌に対するアンチテーゼが込められているそうです。
結局そういう奇を衒った歌は、芭蕉の様には残っていない訳で、本筋の強さのようなものを感じます(笑)本筋っていうのはやっぱり、守られないようでいて、守られる所があるんですよね。

「「かれえだに」発句画賛」は森川許六の牧谿の様な鳥に、枯枝に烏のとまりたるや秋の暮、という歌が添えられています。この句は展覧回中で良く見かけたので、好きだった模様。
凄く素直な歌で、芭蕉の人柄を感じるかもしれません。

芭蕉は大師流という書の流派を勉強していたそうです。大師流といえば山岡鉄舟ですが、書風は全然違います。大師流というのは、どうやら古い書を研究する流派だったそうで、基本を学んだ後は、昔の人の数だけ書風がある感じだったみたいです(^_^;)
芭蕉の書はやはりだんだん素朴さが増してくる感じで、公家とも、武士とも、文人とも違う、独特の簡潔な美しさがあります。

「古人の跡を求めず古人の求めたる所を求めよ」という芭蕉の言葉が残っていて、これは大師流のスローガンだったそうです。古人を古仏に変えた禅語があって、このころの仏教(神仏儒習合)と芸術は混沌として分かち難いものであった、といって良いと思います。そしてその思想的なバックボーンがあってこそ、現代の世界で愛好される日本文化が出来上がった、といえると思います。
その一等澄んだ一滴が、芭蕉という現象だったのではないでしょうか。

併設の仙厓展はあいかわらず最高です(笑)
「芭蕉翁画賛」は池に飛び込もうとする蛙に、池阿らは飛びて芭蕉に聞かせたい、という賛。ユーモラスな歌というような解説が付いていましたが、その通りですけど、芭蕉が蛙が池に飛び込むのを見つけた、というのをひっくり返した視点を説いているのではないかと思いました。
「自己を運びて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を之証するは悟りなり」という道元禅師の言葉が浮かびました。芭蕉の発句は悟りであり、それは受動的なものだった、蛙に証せられたものだった、ということを説いているのではないかと直感的に思いました。
蛙の聴かせたいという気持ちに、聴く準備が出来た芭蕉の境地が滲んでいるような賛だと思います。

禅の言葉で簡単に表せば「卒啄同時」という言い方が簡潔かもしれません。

ニュートンのリンゴの話は作り話だといわれていますが、ああいうことがあったとして、万有引力を研究しているニュートンが見ないとリンゴが落ちても何も感じないんですよね。師である自然(リンゴ)はニュートンに落ちるところを見せたくて仕方がなかったということでしょう。

どうも口へんの「卒」はソフトのメモ帳やブログには使えないようですね。東洋思想の基本的な単語は使えるようなパソコン・ブログであったらよいなと思います。

「芭蕉蛙画賛」の賛は、ふる池や芭蕉飛び込む水の音。解説は、変なようだが芭蕉も飛び込んで蛙の心境を確かめたのだ、ということですけど、そのまま受け取ればこれも不足な解説だと思います。
蛙が飛び込んだ瞬間に芭蕉も水に飛び込んだ。つまり、主体と客体を離れた自他不二の境地がそこに成り立っていた、ということを説いているのだと思います。

「蛙坐禅画賛」は解説によれば、坐禅より悟りを求める心が大切だ、ということを説いている、とありました。禅家の人が悟りを求める心が大切だ、と言うかな、というのはさておき、そういう面のある絵だと思います。
ただ今回は観て、坐禅に対して僅かな不足を感じていたのではないか、ということを感じました。臨済宗ですけど、盤珪さんは坐禅をそれ程重要視していなかったような感じですし、白隠は内観法の様な坐禅の補助となる行法を伝えました。坐禅で十二分ならいらないわけで、このころの仏教界には、坐禅だけではちょっと不足なのではないか、という空気が微妙に存在していたのではないかと、個人的には思っています。
毎度、司馬遼太郎の禅観は変わっていて、何百万人が禅をやると、特殊な一人が悟って、後は品性が悪くなる、というもので産経新聞文化部時代の寺巡りの経験からそう思ったそうです。
これはいくらなんでも極端だと思いますが、これの何割か位の不足を、坐禅などに対して感じていた人はきっと居たと思うんです。仙厓さんもその一人だっのではないか、とこの絵を見てかすかに感じたような気がしました。

ちなみに禅は老莊思想の仏教的な展開と捉えられることが多いのですが、老荘を「竜馬がゆく」の記述にみられるように、余りマイナスとは考えていなかった司馬遼太郎が禅が嫌いだったのは、どこを考えて良いか知らないですけど、考えどころだと思います。

今回多かったのは、楽しみは花の下より鼻の下、という賛が添えられた一連の作品群。
花見の楽しさを伝えるような絵で、吉野の花見が形骸化したことに対する嘆きではないか、というような事が書かれていましたが、前のカタログの解説にもあるように、やっぱり只管楽しんでいるだけのような気もします(笑)

この一連の作品は「葱画賛」の、近よるなくさい坊主ハ根きの花、という賛を通して観ると分かりやすいような気がします。
形だけ作っているようなお坊さんを批判しているんですが、いかめしい感じで居れば安全なんですよね。しかし仏教は真空妙有といいまして、空を悟ったらそれが日常で生き生きと働かなければならない。
全てを空じて捉えると共に、感受性も生き生きとしていなければならないんですよね。だから楽しいときは楽しむのも必要なのですが、そうすると生臭坊主だと思われる危険がある。だから謹直にしていた方が社会的には安全なのですが、仙厓さんは自然な振る舞いを一生涯通し続けました。それこそが僧侶として本筋の生き方で、ここに仙厓さんの胆力、本筋の生き方を感じます。

仙厓さんが作った焼き物の「姥ヶ餅焼茶碗」も個人的に驚きの逸品。織部焼きのように歪なのですが、歪に作ったというより、自然に作ったら結果的に歪になってしまった、という雰囲気が全体に溢れていて、作為を感じない崩れ方に衝撃を受けました。

洋画のコーナーはやはりムンクが素晴らしいです。
ムンク美術館から3点借り受けているそうで、良い関係だなぁ、と僅かに感涙。
「頬杖をついた自画像」が色彩が輝かしい作品で、やや健康的なゴッホといいますか、油彩の明るさに水彩の淡さが加わったような、魅力的な自画像でした。

芭蕉の書と生涯に、出光の常設ともいえそうな、仙厓さんの作品が味わえて嬉しかったです。ありがとうございました。

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