サントリーホール 庄司 紗矢香(ヴァイオリン)、ジャンルカ・カシオーリ (ピアノ)ヴァイオリン・デュオ・リサイタル

#音楽レビュー

行って参りました。

会場の入りは良い席は大体埋まっていて、後ろの方は空席が目立つかなといったところ。大体均して6割くらいでしょうか。
エントランスにはヴァイオリンを持った若い女の子もいて、勉強をかねているのでしょう。前にみたヴァイオリン少女も順調に成長していたらこれくらいでしょうか。

曲目は

ヤナーチェク: ヴァイオリン・ソナタ
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第10番 ト長調
ドビュッシー: ヴァイオリン・ソナタ
シューベルト: 幻想曲 ハ長調 op.159

といった内容。

この日一番の物凄い完成度だったのは最初のヤナーチェク。

他のこの作曲家の演奏から聴かれる晦渋さは、絶美のニュアンスに解消し、透徹した音の中に回収され、限り無い深みを湛えます。
秘めやかに演奏されたかと思えば、情熱が爆発し、極めて高い運動量を秘めた曲であることが明らかにされます。

ヤナーチェクは伊福部昭さんも好んでいた作曲家で、影響を受けたのは比較的後年だともいいますが、共に民謡採集が得意で似たような雰囲気もあります。
伊福部昭さんは「日本狂詩曲」でチェレプニン賞を受賞しましたけど、あの作品が評価される音楽界の土壌も感じました。

いわゆる東洋的な曲で民謡調の部分も出てきますが、懐かしげなメロディの感情表現も抜群で、これだけを聴いた人はヤナーチェクを異常に偉大な作曲家だと思うに違いありません。

ただ、この演奏から感じられた深い瞑想性は前に聴いたショスタコーヴィチからも聴こえたもので、どこまでが曲でどこからが演奏なのかは不明です。

伴奏のカシオーリとの息もとても合っています。

私は日常で触れる芸術・芸能の9割9分に繊細さや情熱、エッジの立った表現力や有機性、深みといったことに対して非常に不満を感じます。あまりにもギャップがあるのですが、そうした自分の感覚に極めて強く訴えかけて、確信を与えてくれるのが庄司紗矢香さんなのです。

やはり天才の音楽を聴くと癒されます。

ただ次のベートーヴェンはそれほど良くなく、庄司さん(の今のスタイル)はベートヴェンに向いていないのではないかと半ば確信に至りました。

粗野で野蛮な音楽が高雅さを求めてさまようような所があり、庄司さんの資質と較べてベートーヴェンは地上的過ぎるような気がします。

この10番はヴァイオリンソナタ中唯一の後期の作品で、解説には「円熟のなごみ」が漂うと評されています。パトロンの大公に献呈されたらしく、ロココ調というと正しいのかわかりませんけど、そういう雰囲気でベートーヴェンらしさはかなり抑え目です。

ベートーヴェンは結構俗なメロディラインが多い作曲家で、歓喜の歌はおやじ臭いといわれたりしますし、田園交響曲ですとかも親しみやすいメロディが多いですが、庄司さんが演奏するとそういった俗なメロディが天に向かって蒸留されてゆき、鄙びた味わいが出ないところがあります。

優美さを優先して作曲されたこの曲では、そういう場面が一層目立つように感じられました。

ただ第四楽章の終結部はかなり激しい曲で、花火のように炸裂する演奏になっており、これを聴いたらベートーヴェンもビックリするのではないかと思います(^_^;)

休憩を挟んで、ドビュッシーではピアノが作る夢幻的な空間を、ヴァイオリンが切り裂き飛翔していきます。時に曖昧なこの作曲家の音楽にさびが効いていて、明瞭なきらめきを放ちます。

有機的な音楽性が極まっていて、ヴァイオリンを越えた、何の音なのか不思議に感じるような感覚をもたらす音が出ていて、ニュアンスは極めて神秘的。

前に絵画展でトンネルを抜けたら美女が泉で水浴びしていた、という庄司さんの絵を観ましたけど、それに近い印象を受けます。

シューベルトは出だしが僅かに有名なアヴェ・マリアに似ている曲で全曲の雰囲気にもかすかに似たような、常に黄色い光が差し込んでくるような柔らか味があります。

どちらかというとピアノが主役の曲で、カシオーリの弱音のニュアンスの豊かさが目立ちます。
カシオーリも脂の乗った独奏者であり、奏者の見せ場ということでバランスを取って入れた曲なのかもしれませんね。

ヴァイオリンはニュアンス豊かで彫が深く、終曲の爆発力も素晴らしいのですが、サロン向けの音楽といった感じで、曲が奏者の表現力を明らかに受け止めきれていません。

ベートーヴェンとシューベルトはともにヴァイオリンの名手に向けて作られたものですが、曲が奏者に力負けをしています。ドビュッシーもそうかもしれません。

前に大植英次さんがトップランナーに出ていて、最後の一言ということで、モーツァルトとかベートーヴェンとかみんな自分より凄い人で、そういった人達とずっと向き合えるのは喜びだ、という事を言っていて、非常に感銘を受けて記憶に残っているのですが、庄司さんのクラスになると、変に作曲家を神格化して真髄に迫ろうとすると、むしろレヴェルが下がってしまうくらいなのかもしれません。
特にベートーヴェンに関しては個性の相性もあるのかそういうことを感じました。モーツァルト以外はなかなか庄司さんの音楽性に匹敵しないくらいの状態だと思います。

アンコールの一曲目はJ.S.バッハの「音楽のささげ物 BWV1079 No.4 上昇5度のカノン風フーガ 」。

バッハはあらゆる奏者・演奏スタイルを許容してしまうことで有名で、庄司さんも遺憾なく暴れて音楽の骨格は揺るぎもしません。そして演奏家の力量に応じてどこまでも深みを増してゆきます。

すべてを削ぎ落とした純化された音が鳴り、奏者の周囲の空間に宇宙がぽっかりと裂け目を作ったかのような演奏で、その清冽さは筆舌に尽くし難かったです。

庄司さんの玄淵志向の音のつくりと較べると、カシオーリのピアノはメロディアスな要素がありましたが、それがプラスなのかマイナスなのかは不明です。

僕は庄司さんは史上最高のバッハ弾きだと思います。

そしてもう一曲はなんと意表を突いてストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ からロシアのダンス(ヴァイオリンとピアノのための編曲版)」。終演後も観客が驚きとともペトルーシュカの話をしていました。

はじまってみると、ストラヴィンスキーの人間以前のような野性的なつくりと、庄司さんの超野性的なヴァイオリンの走り方の取り合わせが絶妙で、まさにサバンナを得たチーター。

こうやって聴くと、いくら気迫があろうともベートーヴェンはあくまで人間なんだなと思わされます。

猛烈な前進力でぎゅるぎゅる疾駆し、自在に伸縮しつつ虚空を暴れまわり、楽器の音を超えた本性を存分に羽ばたかせ、圧倒的な場を作り出します。

ストラヴィンスキーがこれほどの内容で、異常な躍動感を伴って流れるのは空前だと思います。

凄くご自分に合ったアンコールピースをみつけられたな、ととても感心致しました。
忙しかったのかもしれませんがアンコール一曲目が終わった時に帰られた観客もちらほらいて、実にもったいなかったなと思います。

個人的に異様な盛り上がりに達したコンサートで、終演後素晴らしい充実感と高揚がずっと続きました。かけがいの無い体験として私の大切な宝物の一つになるような気がします。

庄司さんのパフォーマンスとして私がみた中で間違いなく最高クラスで、それを舞台で披露するためには当然天才性だけではなくて、物凄い努力、そして舞台上での集中力が必要だったと思います。それを思うと重みと奇跡を感じざるを得ません。

ありがとうございました。

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