サントリー美術館 お伽草子 この国は物語にあふれている 第7展示期間 その3

#その他芸術、アート

柔道の内柴は無罪を主張したみたいですけど、さらに11月2日には違う生徒が被害を訴えていたことがニュースになりました。この人はどうしようもないといって良いでしょう。江戸時代ですとか、戦前ぐらいまでの色々な流派では、人を観て技を教えなかったり入門を許可しなかったり、ということがありましたが、柔道でそこまでやるのは難しいのかもしれませんが、日本の武術の伝統を引き継ぐとすれば、人格を周到に育ててそこに技を付け加えて行くというのは当然のことです。しかし、そういう取り組みを眼に出来ることは皆無なのではないでしょうか。柔道には日本武術の原点に戻ってもらいたいと思います。

しかもそれで武術より精神面で進歩したとか言っているのですから、それはフィクションだと思います。それを率直に直視することからはじめるべきではないでしょうか。
そういう意味ではやっぱり、江戸時代の人は武術はエレガントに使われないと暴力そのものである、ということを骨身に染みて知っていたのではないかと思うんですよね。

司馬遼太郎さんは例えば「竜馬がゆく」では、竜馬は早い段階で武術に見切りをつけたのが他の武士と違った所だった、という筋書きで、それが手紙などから観て違うのではないかという話は前にしました。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51131965.html)無想剣なんちゃら、といった、稽古風景の描写もありますけど、中身のない妄想描写で、少し馬鹿にしているようにも感じます。

「世に棲む日々」などでも柳生新陰流の稽古風景とかなかったと思いますし、もっとわかりやすいのが随筆などで彼らの業績と関連付けて語られたものが一つも(私が眼にしたものの中では)ないということです。
剣術家集団である新撰組も出世を目指して人を斬って行った集団の様に書かれていますが、最近ではその思想性が注目されていて、当時沢山あった思想結社の一つ、というような見なされ方もしているようです。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51959289.html

武術の扱いが極めて悪いのが、司馬遼太郎作品の特徴なんですが、評価されている剣術家もいます。

まずは宮本武蔵で、五輪の書は達意の文章といっていて、剣術のディティールではなく文章家として評価されていたと思います。
「新説 宮本武蔵」は昔図書館で読みましたけど、網野史観の職人観を導入して武蔵の渡世を想像したような作品だった記憶が。

また宮本武蔵は円が好きな人だった、というのですが、五輪の書にもそのようなことは書かれていないですし、あまりそういうことを仰る武術家の方も知らないんですよね。
円明流を創始していますから、好きなことは確かでしょうけど、現代武道の合気道が円を重視することが照り返ってこういう記述になったのではないか、などと思ったりもします。現代と過去を無理矢理一直線に繋げるといいますか、歴史によって現代を擁護する傾向からいうと、ありえるのではないかと思ったりもします。

もう一人は北辰一刀流の千葉周作で、これも剣術のディティールではなく、その教授体系の刷新が評価されていて、「工学博士」といったような褒め言葉を使用していたと思います。原発事故のときもインターネットで工学系の人達の自負を感じるような文章をたびたび眼にしましたが、戦後重視された職業の一つで、時代を代表する作家らしい褒め言葉だなと思います。

しかし氏の解説に即して言えば、上のような人を観て教授するとかそういうのを抜かして、システム化されたことが評価されているんですよね。ノモス化といいますか、この氏の解説の中の千葉周作のシステムは現代武道の教授体系の祖形となるものであって、それが本当に正しい進歩だったのか、と問い直す時に来ているのではないでしょうか。

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