東京都美術館 【特別展】リニューアルオープン記念「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」その1

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流行語大賞がありましたけど、原発関連のランクインは無し。そのようなことはサリン事件の時がありましたが、原発はまったく性質が違うもので、また、除外するという主催者の声明もなかったのも大きな違いだと思います。
完璧なスルーといえ、国民的に議論するべきことで、何も無かったかのようにやり過ごすのは、メディアとしてというより日本人として疑問に思います。色々な利害関係の末のことでしょう。
そういう意味で一番穏当な所でいえば、活断層ぐらいあっても良いのではないでしょうか。

サンデーモーニングの「風を読む」では領土紛争をやっていましたけど、野田と胡錦濤のすれ違いをただ映すだけで、野田が信義を破ったので無視されているのだ、という視点がありません。この映像は野田が悪い事をしたと思っているの怯えてそっぽを向いていますよね。
これは金子さんがフォローそしていましたね。

また反日デモを映し出していましたが、反日デモを反日デモとして全地方一色単に捕らえる映像で、見方が一面的過ぎる映像だったのもまずく、これも浅井信雄さんがフォローしていましたね。

また震災時の日本人の行動を素晴らしいと称えていましたが、別に略奪なども起こっており、被災地で苦労している人達を心情的にも海外メディアは賞賛したいだろうと思います。
そもそも女性二人のコメンテーターが指摘したように国民性で括るのが粗く、おかしく、これはこの番組の昔からの非常に悪い癖だと思います。やはりコメント通り、人それぞれで、政治家などに人を思いやるような美徳は感じられませんでしたよね。

一々歴史的な国民性と直結させて物事を捉えるのは司馬遼太郎さんの得意で、随所に安易な一般化を戒めるような文章もあるのですが、これまでもいくらか書いてきましたように、調べていくと疑問を感じさせる一般化に満ちていると思います。

また非常に美徳として捉えているようでも「日本の集団性という国民性」という誤った認識の呪縛から脱していないと思います。

日本は、利己的な意味での集団性ということで実は個人主義だという捉え方もあるようですが、いわゆる集団性は少なくとも古来から歴史的な中で培われたものではないんですよね。
幕末を見てもスタンドプレーをする人ばかりですよね。平時でも実は武士などいわゆる滅私奉公。身命を省みずに組織と戦った人が沢山いたことがわかっており、こういったことが文化として根付いていたといわれています。

司馬遼太郎さんは江戸時代をしっかり個人が確立していた時代だ、と評価していましたけど、このいいかたですと、文化的なものを飛ばしてしまって、近代的な部分に適合する部分だけを評価しているような文脈になってしまう恐れがありますが、正しい認識だろうと思います。この部分に限っていえば、江戸時代暗黒史観がまだ色濃かった時代にこういう直感的な認識はかなり先をいっていたと思います。

「坂の上の雲」で明治を称えるような文章を多く書いたせいか、幕末物で幕閣を無能に書きすぎたせいか、日本の文化伝統の悪口を書きすぎたせいか、晩年に呟くように随筆に書いているだけだからなのか、司馬遼太郎さんの意見のなかでもこの部分はあまり社会的な認識として一般化していないと思うんですよね。もしくは文化的な背景と切り離されて認識されていることもあるかもしれません。

また、惜しむらくは保守派の保守的な意見と思われがちなところで、たとえば「風塵抄」の江戸時代・戦前と較べて現代人を嘆く文章ですとか、ただの古老の嘆きのように読めてしまうのですが、そうではなくて優れた直感によるクリティカルな指摘である、という認識がここでは正しいだろうとおもいます。

問題は滅茶苦茶多いのですが、やっぱり長所はあった人でしょう。坂の上の雲の曲解などばかりではなく、生かしていくならこういったところを生かせば良いとおもうのですが、実際は逆になっている人が司馬遼太郎ファンと称している人や、そういった人達が影響を受けて作り出した創作物を享受している人の中の、恐らく大半を占めるのは問題だとおもいます。

ただ一方で日本の身体・精神文化がこのような惨状になったことに対して司馬遼太郎さんは物凄く重い責任があり、そういう意味では「勝利宣言」と受け取ることも出来ます。前に壮大な自作自演といいましたけど、そのように観るとこの「風塵抄」という書物は、至るところに勝利宣言が満ちているともいえます。

サンデーモーニングに戻りますと、一部を除いてコメンテーターの意見は秀逸だったのですが、VTRがあまりに程度が低い、といえる内容で、何とかならないものかなとおもいます。

大規模な反原発デモがありましたけど、tbsの5時35分ごろのニュースでは、デモを恐らく一分くらいは取り上げましたね。
他でも極めて短時間の報道しかみず、当然高嶋裁判より時間を割いて伝えるべき事柄で、初夏の盛り上がりで完全なタブーではなくなりましたが、実質の黙殺状態は続いています。

11月11日のソロモン流は日本で古民家再生に取り組むアメリカ人の賢人を取り上げていましたけど、番組中の富山の古民家ですとか、美しく、売られて壊されかねない状況にあるのですが、日本国内でこういったものを守っていこうという動きが弱いのが寂しい限りです。

リノベーションをして上手く使っていけば良いと思うんですけど、そういうことはしないのは戦後の消費文化が大きく影響しているでしょう。
ここらへんの貧しさを良く指摘しているのが、イタリアが専門でブラタモリにも良く出てくる陣内秀信教授ですが、イタリアの伝統を上手く使っていく文化を褒めそやす一方で、日本の現状を対照的に貶す文章が多いんですよね。

こういったリノベーションが進まないことの大きな理由一つに、日本人自身の日本文化に対する評価の低さというのがあると思うんですよね。そういう眼で観た時に非常に皮肉な文章にみえるのと、私が読んだ限りで、奴隷売買や時に空疎な貴族趣味といったヴェネチアの暗部などに触れないのが疑問であって、認識が欧州を美化する方向に傾いていると思います。
こういった古民家の保護の掛け声が大きいのにいっこうに進まない構造の理由がここに現われているのではないかと思うときがあります。

また、白川静さんは古代中国の事を考える時でも、常に日本が念頭にあると仰っており、実際氏の学問は常に日本との関連性が強く意識されていて、日本人の血肉になるような古典の読解をされていました。
陣内さんの場合は、ない事はないんですけど、白川さんと比較するとイタリアなどを語る時にそういう眼差しが弱いのも不満です。

もちろん著書のラインナップをみても日本に対する目配りはおおいに持っている人なのですが、いくつかの著作を読んで感じた事を率直に書けばこのように思いました。

ただこの人の本は本当にイタリアが好きであることが伝わってくるのが読んでいて楽しい所で、いつの間にか読み進めてしまう面白さがるんですよね。

今度ふたたび東京に関する本が出版されるみたいですし、そこら辺のフォローが今後進んでくるのかもしれません。

ストーカー殺人事件では、11月12日のスッキリでコメントを寄せた元検事が警察の住所読み上げに対して、逗子ぐらいで留めて置けばよかった、といったのが暴言。引っ越して名前も変えるほどであり、指摘するべきは法律を改正しない怠慢や、一部でも読み上げた警察のずさんさ以外にありません。

被害者の恐怖は本当に想像にあまることで、あってはならない失態だったといえるでしょう。

国民の生活が第一の民主党は、輸出企業優遇で国土強靭化に向けた、消費税で盛り上がっていましたけど、こういったところはまったく手をつけず、いかに二の次かが表れている事件でもあったでしょう。
小沢の裁判も二審まで無罪が出ましたけど、こういう所だけ熱心です。上告するとしたら意固地な話です。メディアも有罪を前提に報道してきたといえる状態で、報道を振り返る特集などで過去を清算して柔軟に対処するべきだと思います。

この事件をみて届け出を躊躇してしまった人も多いはずで、公的機関が頼れない状況になってしまっており、そういった意味でも罪深い怠慢だったと思います。

月曜の大竹さんのラジオによると野田はTPPを争点に解散したいといっているとのこと。
抵抗勢力を作らない云々といっていましたけど、結局はやりやすい手法としてそちらの方へ行きたいということでしょう。
それに応えて、農業に絞った報道を浴びせ続けるメディアの姿が目に浮かびます、そして、モーニングバード辺りではちょこっと疑問ありますゴニョゴニョ……とやるのでしょう。

以前にそういうことがありましたが、政党の主張から何を取り上げて争点として認識するかは投票者にあるのであって、政党自身が争点を決めるのはおかしく、さらにそれを真に受けてというか、何かにコントロールされて、それをあたかも争点として連日放送するテレビはさらにおかしいと思います。

最後に「テレビはあの時小沢叩きに労力を費やしましたね。これからどうするんでしょうね。」と大竹さんが言っていましたけど、なにやらスルーの方針の匂いが。

小沢の裁判は当日ほとんど報道されず、どこの局も特に動きもない中国報道を何倍もの時間で繰り返すばかり。
荒川強啓さんの番組でもランキングでは一番になったんですが、上告する可能性があるので、無罪は確定していない、と言って、何故かすぐに政局に話が持っていかれ、小沢の話は完全に出なくなる状況。
小沢自体には興味はないんですが、メディアの有罪前提の報道とそれを振り返らない報道、あたかもいないような報道には、納得行かない矛盾を感じますし、検察の無理筋やそれを追及しない報道にも疑問を感じます。

大学の不認可の問題は、あやまるがどうとか、どちらにしても各処から出る発言のレヴェルの低さに愕然としますけど、話題としては未だにぼちぼち続いています。

聞いた事が無い論点ですけど、認可される前に校舎が完成しているというのも非常におかしくて、馴れ合いが前提になっていたのではないでしょうか。

むしろこういうことが必要なのは被災地であって、現地で必要な資金を遣ったり建物を建てた後で認可をする仕組みは早急につくるべきだったし、今からでもやるべきだと思います。

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