フジフイルム スクエア FUJIFILM SQUARE 企画展よみがえる不朽の名作 土門拳の『古寺巡礼』第二部:『古寺巡礼』-浄土と禅宗世界への憧れ-平安後期から桃山 その3

#その他芸術、アート

一昨日、谷文晁展の帰りにふらっとフジフィルムスクェアに行ったらやっていました。らっっっっきぃぃぃーーーー!!!と内心叫んだものの、しばらく観て回るとこれは第二部であって、一部の展示期間は終わってしまったのだとのこと。時間を巻き戻す系のことはあまり浮かばない人間なのですが、このときばかりは、惜しいと思う気持ちを抑えきることができません。内容も凄まじいの一言で、これほど菩提心を起こさせる写真展はないでしょう。何処かの寺院で常設するべきなのではないでしょうか。

古寺巡礼は文庫版で何冊か持っており、たまにしげしげ眺めているのですが、これだけ大きくなるとまったく違います。写真の解像度も素晴らしく、カメラはこの半世紀進歩していないのではないかとさえ思わせます。しかもその道のマニアの人がいうような、アナログならではの有機的な暖か味すら感じられます。
篠山紀信展でも使われたといわれる、現代技術で引き伸ばす方法とかも使ったのですかね?

加えて素晴らしいのは添えてある土門拳の言葉です。仏像を語ったことばの最高峰の様に思います。

「静かな伏目で僕を見下ろしている阿弥陀の顔を仰いでいると、だんだん自分の気持ちが阿弥陀の方に吸い込まれていくような気分になったものだ。」(平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像面相)ですとか、正に仏像の醍醐味を語っています。

淨瑠璃寺の吉祥天は日本一の美人の仏像だとのことですけど、まさにそうでしょう。

圓成寺の運慶の大日如来坐像については「あたかも眼前の大日如来坐像が運慶その人のように思えてきたものだった。」とのことで、これも良くあることです。仏像は作者の分身でもあり、それと時空を越えて対話する空間であるともいえるでしょう。

修復前の中尊寺の金色堂も渋く眩く実在的に撮られており、ふしぎなほどの映え方。上下左右斜めから十数個のフラッシュを焚いてシャッターを開きっぱなしにして30分ぐらいかけて撮るとのこと。
これによって独特の訴求力を持った「浄土」が現出します。

一枚を撮るのに大人数で相当な時間をじっとしていたりするらしく「それは手術室に入った外科医のように対象の中に沈潜して探求と発見と解決を手順よく運ぶ一瞬一瞬の連続だった。」といった感じで撮っているとのこと。まさに本質。マーヒーヤが語りかけてくる瞬間を待つ作業であるといえるでしょう。

明恵上人で高名な高山寺に良く通っていたらしく、そこで撮られた「坐禅石」はまさに人が乗っているかのよう。

また夢窓国師も慕っていたようで、その像に対する「無限遠の視線」という表現はカメラマンならではです。

「僕は一日本人である。日本人については、くだらないなぁと匙を投げたくなったこともしばしばだが、こんなにも長く日本文化に取り組んできたのはやはり日本人が好きだからだろう。」とのこと。他の所では古寺巡礼について「民族と文化への(中略)愛惜の書」と書かれていましたけど、かつての偉大な文化を磨き上げた日本人の素晴らしさと、今の日本人の下らなさをかなり感じていたのではないかと思います。

土門拳の仏像写真の特徴は表情を大きく接写したものが多いこと。秘仏でなくとも仏像というのは秘してなんぼといったところがあり、それは宗教的な神秘性という意味ではなく、秘する感情というのは純粋な心性と何か関係があるのだろうと思います。

そういう面からみると仏教的な感じはせず、むしろ純粋に一人の「人」として扱っているのですが、仏師の技やそこに込められた精神性はそういう撮り方によってより露になり、巨大な存在として浮かび上がります。

ましてやこれだけの大きな画面でそれを展開されると圧倒的といえるでしょう。仏像の純粋内容の迫力といえます。

仏像芸術の粋が展開されていて、入ってすぐに圧倒的な眩い空間が、静謐な空気を醸しているのに気付かされました。書ききれない感動があります。

みなさまもぜひぜひどうぞどうぞ。

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