東京都美術館 【特別展】リニューアルオープン記念「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」

#その他芸術、アート

行って参りました。

この前の70分待ちのプラカードをみた経験から、この日は朝一番で。大体開館と同時くらいについたんですが、それでも20分待ち。ただ列は室内に収まっていて、大分楽です。

同趣向の国立西洋美術館と較べても異常に混んでいて、不思議なくらいだったんですが、出品されている作品は極めて粒揃いで納得させるものがありました。皆さんみる前からすでに内容を知っているんですかね?

この美術館はかなり小さいらしく、個人の邸宅をそのまま使っていて、このたび拡張工事をするのだそうです。
所蔵品は個人コレクションが中核らしく、そのため観ていて非常に楽しいものが多いです。規模は小さいですが、これは村内美術館などと共通した特徴です。

「フレデリック・ヘンドリックの肖像」など明暗表現がくっきりとられた肖像画群がなかなか良く、ホーイエンの「ホーホエルテン近郊のライン川の眺望」は薄明かりに煙る風景が絶妙。良い絵ですよね。

ライスダールの「漂泊場のあるハールレムの風景」は、日本の広重などと較べると空が広く、写実を優先するとどうしてもそういう傾向が出てきますが、その空の描写に清魂がつぎ込まれていて、見事です。

ルーベンスの「聖母被昇天(下絵)」は有名なフランダースの犬の絵で、自由に舞う天使らが快活です。

レンブラントの「スザンヌ」は神話に取材した裸婦画で、横の女性は、何でこの瞬間なの、だいたいこれスザンヌじゃんってわかるの?とつぶやかれていましたけど、神話という題材は裸婦を描くためのきっかけ、ともいえるでしょう。この前読んだものの本にそれが目的であると断言されていました。

踊りも同じようなもので、この前のめちゃいけでお笑いの人と柏木さんが踊らされていましたけど、あれも芸術の皮を被ったセクハラであると断言できますよね。いやはや。

同じくレンブラントの「シメオン賛歌」は二十歳の若作らしく、全体的に暗くイエスの周囲だけ明るい感じです。つや消しがかかっているといいますか、レンブラントは若いときの方が、黒が際立っていますね。

フェルメールの「ディアナとニンフたち」はみるのは二回目ですが、やたら大きい印象があったので、小さく観えました。長らく別人の作とされていたらしく、確かにフェルメール作品としては異質ですよね。ただ、独特なちょっとおぼろげな感じといいますか、そういうのは出ていると思います。

同じく「真珠の耳飾りの少女」は内部で更に30分待ちの行列で、混んでいる時はもっとなのでしょう。普通の歩行速度で通り過ぎてしまったので、鑑賞どころではないところもありましたが、意外とすすけた感じもあるな、というのが印象。

解説ではこういった肖像画などが花開いた理由として、「背景には海洋貿易による目ざましい経済発展がある。」とありますが、やはり奇麗事でしょう。アジアの国としても、必ずしも綺麗なことではなくともしっかりと記述するべきだと思います。

またこういったことによって商人や事業家が重視されるようになったそうですが、この頃のヨーロッパの産業構造をみても特殊で、戦後の日本も似たような所がありましたけど、今後は、より地域に根ざした職業が重視されるようになるのではないですかね。

カタログではキリスト教と笑いについて書かれた記述が興味深く、キリストは生涯一度も笑わなかったという伝説がキリスト教にはあるらしく、してはいけないこととされていたそうです。15世紀ぐらいになると、戒めとして悪い場面として笑いが描かれ始め、だんだん変っていくとのこと。

理由については書かれていなかったと思いましたが、いわゆる世俗化、といいますが、「大発見の時代」で消費文化が訪れて、享楽を肯定する社会的風潮が生まれてきたのと関係があるのではないかと思います。

一方東洋ではブッダが「拈華微笑」の伝説で有名で、笑いが宗教の中に組み込まれているんですよね。特に日本の禅宗においてはその傾向は顕著だといえるでしょう。

極一部で同一人物説が出るくらいのキリストとブッダですが、違うベクトルもかなり持っていたことが注目されます。

日本でも宗教的世界から世俗化へ進歩、といった感じで語られたりしますが、お互いの宗教の性質の違いを抑えておくことがとても重要でしょう。

明治時代になると、「<よく遊ぶ>こと、つまりは「欲望」が公然と肯定されはじめたことを、この広告は示している。」(文明国をめざして (全集 日本の歴史 13) 牧原 憲夫 (著) 294ページ)ということで、快楽の積極的な肯定がこのころに西洋の影響でもたらされたということが論じられているのですが、江戸時代では庶民は結構遊んでいるんですよね。もちろん遊びという概念も、労働というものに対する意識も今とは驚くぐらい違うので単純な比較は出来ませんが、上のようなキリスト教世界の変化を日本社会にぴったりと適用しようとしすぎているのではないか、ということは感じます。

日本では明治以降、笑顔が抑制される場面が多かったと思うんですけど、やっぱりキリスト教的な思想の影響は大きかったんでしょうね。

伝説では他にもキリストに妻がいたという偽資料がどうとかという話が最近あって、キリストの弟子には女性はいなかった、といういわれているそうですが、伝説上とはいえ、ここら辺も遊女に教えを説いていたお釈迦さまとは好対照です。日本においてはこういった伝承が、英派や歌麿による遊女を達磨に擬した絵画・思想を生んだのかもしれません。

近代のキッチュでマッチョな男性的な思想の淵源は、奴隷制で男尊女卑が甚だしかったギリシャに求められると思いますが、こういった伝説によってそういったギリシャとの接続をローマにおいてキリスト教は可能にしたのかもしれません。

レンブラントの工房による模写の「首あてをつけたレンブラントの自画像」(1629年以降)の前では女性たちが、イケメンだな、と感嘆。若いレンブラントが綺麗に描けています。

一方で同じく「自画像」(1669年)は風格があり、「老人の肖像」(1667年)は晩年の実験作らしく、厚塗りで、モネっぽいところに繋がっていくんですかね。

クラースゾーンの「ヴァニタスの静物」は骸骨が描かれて、いわゆるメメント・モリ(死を想え)です。なんでもこの思想はヨーロッパでのペストの流行と関係があるらしく前に日本でも似たような行法があることを書きましたけど

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最近こういう観想をやっているという話をあまり聞かないので、こちらも当時のコレラの流行と関係があるのかもしれません。

ファブリティウスの「じしきびわ」はシンプルな静物画ですが、32歳で弾薬庫の爆発に巻き込まれて亡くなってしまった人で、フェルメールへ影響をかなり与えているとのこと。

ボルフの「手紙を書く女」はコントラストが良く、細かい感じにかわいらしさが感じられるように思います。

ステーンの「親に倣って子も歌う」は父親の悪徳を子供のが真似をしている絵で、父親は画家の自画像なのだそうです。

この美術館に他にもいくつか名品があるみたいで、それが観られなかったのは残念でしたが、全体としてとても充実していた展覧会だったと思います。ありがとうございました。

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