江戸東京博物館 五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信その2

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前にここに来た時の感想はあっけらかんとしていてまだアップしていないんですけど、その時は駅の前では八百長の噂がしきりでした。

今回の場所でも徹底的な八百長対策をとったように見える風でもあるのですが(ないか)、何か腑に落ちない方も多いのではないかと思います。それは恐らく取り締まるほうの人たちの中に八百長をやっていた人も多いのを、なんとなくも感じているからではないでしょうか。
八百長をやっている人が八百長をするなといっているわけで、これでは効力を発揮するわけがありません。
監視カメラを設置するとか、自分たちを検証すること以外なら何でもやる、という態度が露骨に感じます。

これは仏教界にも同じことが言えて、戦争責任のある人が戦後もそのまま重職を負って、平和を唱え、市川白弦さんのような方は冷遇されるわけです。
90年代のサリン事件が起きた時に、あんなチンケなものに引っかかるのは本物を知らないからだ、といっていた宗派がありましたが、それはその通りなんですが、率直に言って片腹痛い。伝統宗教があまりにも低落しているからこういうことになっているわけで、仏教の理論でいえば、因縁の「因」に限り無く近いところに居た、と自らを総括するべきではないかと思います。
日本人の大半が仏教は好きなんだけれどもお坊さんは嫌い、というデータが出ているそうですけど、これは端的に言って過去の遺産で食べているということです。

これは今回の事件でも同じことが観察できます。マスコミ幹部だかOBが接待旅行に行っていたといいますが、この政官財との癒着はまったく戦争の反省が生きていないといって良いでしょう。
先輩たちが自らを変革できないで、過去を清算できないまま悪弊を継承して行く、という構造が相撲そっくりです。

原子力村の構造だって、例えば、危険性・失敗した際の研究に予算を出さないとか、前の世代から継承してきたものでしょう。

具体的には知りませんが、こういう悪循環は他の業界にもあるのではないかと思います。
今回の事件はこうした構造を断ち切る、またとないチャンスだと思うのです。

「第 36 幅 六道 人」では羅漢に宅配便が届いたらしく、物質的な繁栄を謳歌しています。中村元さんが「古典のことば」(53ページあたり)で学究的な立場から仏教は資本主義を支える思想になりえるか、ということを考えていますが、ガンガン稼いで人のために遣うべし、というのが仏教のスタンスらしく、物質的繁栄には捕われませんが否定しないんですよね。
仏教と商業の結びつき、ということでいえば、近江商人が典型的といえるでしょう。
世界の町の中で庶民が最も幸福だったともいわれた、江戸の現世肯定が表れているような気もします。

「第 37 幅 六道 天(てん)」では今までほとんど男ばかりだったのに、天女がずらり。一信の天国観が垣間見えます。
女性はそもそも聖なるものに結びつく存在らしく(中世の非人と遊女 網野善彦)、霊力も男より強くて巫女さんが男巫より断然多いそうなので、天国にしかいないのは自然なのかもしれません。
心が美しい女性が祈っていたりするのをみると、そういう思いがいっそう強くなります。

五百羅漢図以外の作品、巨大な「釈迦文殊普賢四天王十大弟子図」はライトの輝度が変わる展示がグッドでした。
「十六羅漢図 (双幅)」は雪村の鉄拐のように何かを飛ばしている羅漢が一人。羅漢を執拗に描く一信の原点がこの絵にあるらしく、一種の観想といいますか、羅漢の良さを自分の中に取り込むための行の一種だったのではないかというような気もします。

「一信自筆日記」という安政大地震や黒船の詳細な記録を含む資料があるらしく、国でも何処でも良いですから、こういう星のようにある近世の資料をひたすら解読してインターネットにアップして欲しいと思います。
「法橋叙任宣旨書、法眼叙任宣旨書」では一信は1862年に法眼になっているのですが、それを書き入れた五百羅漢図は、弟子が書体を真似して書いたものだろうとの事。

「第 41 幅 十二頭陀 阿蘭若(じゅうにずだ あらんにゃ)」からは修行の図。ここでは釈迦像を彫っています。建物に透視遠近法がうまく使われているとのこと。
「第 45 幅 十二頭陀 節食之分(せつじきしぶん)」では陰影法が強調されていて、「麗子像」を更に不気味にした雰囲気。日本の風土と陰影法の相性なのでしょうか。
「第 48 幅 十二頭陀 但三衣(たんさんね)」は縫い物をしていたり、作務ですね。日常が修行です。
「第 49 幅 十二頭陀 冢間樹下(ちょうげんじゅげ)」は漫画の噴出しのように亡骸を観想していることを示す、ということで、西洋画の主題でもしょっちゅう表れるメメント・モリですね。修行法として整備されているのが、東西の違いでしょうか。
この絵も「第 50 幅 十二頭陀 露地常坐(ろじじょうざ)」も、夜のお墓で修行しているようなのですが、中国武術で陰の気を取り込むためにわざわざお墓で修行することがあるらしく、それの仏教ヴァージョンでしょうか。感覚としてとてもよく分かります。

ここら辺を観ていたら、まわりのおじさんが注文を受けて描いたのか、と経済的な背景をいぶかしんでいる様子。図録の解説によると、度量のあるお坊さんが一手に負担したらしく、こういう話は当時はよく聞きます。生きている業界のアグレッシヴさを感じますね。

又この図録の解説にはウィキペディアが引用されて俎上に載せられており、これはカタログ史上初でしょう。表具あわせて三メートルで百枚あるので、専攻の人でもすべてを見たのが2008年が初めて、といった状態らしく、誰でも手軽に見られるインターネットが一信人気に非常に大きな役割を果たしており、いわば時代の子といった要素があるようです。ブログやツイッターで一信の情報が飛び交っている、と書かれていましたが、そんな感じですかね?!

「第 51 幅 神通(じんつう)」からは神通力のシリーズで、羅漢の頭から水が吹き出てきて、その水で亀や魚がぴちぴちと跳ね回っています。神通・・・??!
「第 59 幅 神通」では羅漢病院ということで、人を介護しています。
「第 61 幅 禽獣(きんじゅう)」からは羅漢動物園ということで、動物と戯れています。亀の甲羅で占いをしていたり、古風ですね。

浄土と動物といえばこの前若冲の特集をテレビでしていたのをちらっとみたんですが、たしか「白象群獣図」を観たアメリカの人がノアの箱舟のようだ、といっていたので、はっとしたのですが、キリスト教と同系統思想ともいわれる浄土系らしい発想なのかも知れませんね。
超現実的な人と動物の風景を描きたくなるのは、宗教の東西を問わないのかもしれませんね。

さっき禅画は適当といった話をしましたけど、若冲の黄檗宗は禅宗ですけど、浄土宗の宗風も受け継いでいるのだそうです。

「第 71 幅 龍供(りゅうぐ)」は板橋区立美術館で前に観た、蛸に乗ったり虎に乗ったりしている、よくわからない勢いがある羅漢。
「第 74 幅 龍供」では龍宮城に到着しこれまた女性だらけ。居並んでいる人たちはなぜか頭に海老や魚を被っています。
「第 76 幅 洗舎利(せんしゅり)」では鯉に人が食われています。

また、文字数制限に引っかかったので、分割いたします。

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